第6章 彼はあなたを愛していない、あなたは去るべきだ
結城凝香の落ち着いた、それでいて揺るぎない声が、受話器越しに莉々へ届く。
「ええ、莉々。復帰するわ。今になってようやくわかったの。仕事を手放すべきじゃなかったって」
「その考え、大正解よ。これからは国内を軸に動くの? それとも海外?」
莉々はすぐさまそう問い返した。
結城凝香は少し考えてから答える。
「国内ね。時間が取れるなら、こっちに来て。今後の拠点はたぶんこの街になると思う」
「了解! できるだけ早くそっちへ向かうわ!」
嬉しさを隠しきれない声だった。
二人はそのあともしばらく細かな話を交わし、ようやく通話を終えた。
結城凝香はスマホを置き、再びデザイン作業に戻ろうとした。だがその矢先、使用人が来客を告げに来る。
昨日ここへ戻ってきたばかりで、昨夜も泊まってはいない。
そんな彼女の居場所を、もう突き止めた人物がいるらしい。
わずかな疑問を抱きながら、結城凝香は書斎兼アトリエを出て、応接間へ向かった。
見慣れた空間。
そして、見慣れた顔。
ついさっきまで記者会見を開いていた女が、目の前に座っている。
ドレスもまだ着替えていない。ただ、首元のネックレスだけが別のものに変わっていた。
だが今の葉月清奈には、先ほど会見で見せていた憔悴など欠片もない。
顔色はつややかで、コーヒーカップを持つ所作にさえ、相変わらずの優雅さがあった。
ずいぶん耳が早い。
もう自分の居場所を探り当てたらしい。
結城凝香はそのネックレスに一瞬だけ目を留め、それから葉月清奈の顔を見た。
「葉月さん、今度は何のご用?」
葉月清奈は結城凝香を上から下まで眺める。
認めたくはないが、体の線だけなら結城凝香のほうが上だった。顔立ちは自分のほうが華やかでも、結城凝香には知性のにじむ美しさがある。
――いや、正直に言えば、結城凝香はかなり綺麗だ。
ただ本人が着飾らないだけ。服装もいつも無難で肌の露出が少ないから、地味に見えるだけなのだ。
たとえば今もそうだった。
身につけているのは楽さを優先した部屋着で、メリハリのある身体つきがすっかり隠れている。
胸をかすめた嫉妬を振り払い、葉月清奈はここへ来た目的を思い出す。唇にうっすらと得意げな笑みが浮かんだ。
「結城凝香、会見は見たでしょ? 瑛介はあなたのことなんて少しも気にしてない。それなのに、どうしてまだあの人にまとわりつくの?」
「あなたたちが結婚する前から、私たちは恋人同士だったのよ。あなたさえいなければ、こんなことにはならなかった。身を引くべきなのは、あなたのほうでしょう」
この話になるたび、葉月清奈は腹が立って仕方なかった。
どうして紀藤正博だけは、何があっても自分と瑛介の結婚を認めようとしないのか。
結城凝香はソファに腰を下ろし、楽な姿勢で背もたれにもたれかかった。
その態度はどこまでも気軽で、肩に力が入っていない。
「あなたも言ったでしょう。それは結婚前の話よ。もしお祖父様があなたたちを認めていたなら、そもそも私の出る幕なんてなかったはずだわ」
「愛されていないほうが余計な存在なのよ。彼はあなたを愛してない。そんな結婚、続けて何の意味があるの?」
葉月清奈はそう言いながら、指先で首元のネックレスをなぞった。
「見える? これ、瑛介が私にくれたの。Rubyの最新作よ」
そこまで口にしてから、葉月清奈は思い出したように目を細める。
結城凝香は学業すら最後までやり遂げられなかった役立たず。Rubyが誰かも知らないに違いない――そう思ったのだろう。
彼女は親切ぶった口調で説明を始めた。
「Rubyって知らないでしょ? トップクラスのジュエリーデザイナーよ。作品はどれも目を奪われるものばかり。でも数が少なすぎて、欲しくても手に入らない人がどれだけいることか」
葉月清奈の顔には、優越感と見せつける気満々の色がありありと浮かんでいた。
わざわざ結城凝香を刺激しに来たのが見え見えだ。
離婚の噂は耳にしている。
けれど正式に公にならない限り、油断はできない。
だからこそ、結城凝香に自分から退いてもらう必要があった。
彼女さえ自ら離れれば、紀藤正博だって、いずれは結婚を認めるかもしれない。
結城凝香は思わず笑いそうになる。
自分がRubyを知らない?
冗談にしても笑えない。
Rubyを誰より知っているのは、自分だ。
葉月清奈が首に下げているそのネックレスは、たしかにRubyの作品だった。
だが最新作ではない。
3年前のデザインで、つい最近になってようやく市場に出したものだ。
そう。
彼女こそが、Ruby本人だった。
本人の前で得意げに見せびらかすなんて。
葉月清奈がいつか真実を知ったとき、どんな顔をするのか少し楽しみですらある。
結城凝香はスマホを軽く振り、明るい笑みを見せた。
「ねえ、今の話を録音していたら、そのネックレス代、取り戻せると思う?」
そして、にこやかなまま言葉を継ぐ。
「忘れないで。まだ離婚していない以上、瑛介のお金は夫婦の共有財産よ」
葉月清奈の得意げな表情が、ぴたりと凍りついた。
信じられないものを見るような目で、結城凝香を見返す。
ネックレス代を取り返す――そこが問題なのか。
彼女にとって大切なのは、瑛介がそれを自分に贈ったという事実のはずだった。
自分にはあって、結城凝香にはない。その優越感を見せつけたかっただけなのに。
なのに、結城凝香の言葉は見事に急所を刺してきた。
もし本気で法的に追及されれば、実際に成功しかねない。
結城凝香は出口のほうを軽く示す。
「葉月さん、もうお帰りになって。招いていないお客様を歓迎する趣味はないの」
葉月清奈は悔しさを隠そうともせず、ぎろりと睨みつけた。
「結城凝香、覚えとけよ!」
さっきの言葉がどういう意味かくらい、彼女にもわかる。
二度と勝手に来るなという警告だ。
けれど、これで引き下がるつもりなどなかった。
そのとき、莉々からメッセージが入った。
協業を希望する相手がいるらしく、名刺情報が転送されてくる。
結城凝香が画面を見下ろした瞬間、わずかに目を細めた。
――紀藤瑛介。
Rubyが協業先を探しているという情報を掴み、彼も動いたのだ。
紀藤グループにはジュエリー部門があり、所属デザイナーの水準も決して低くない。
だがトップクラスの人材だけは、どうしても確保できていない。
以前から引き抜きを試みては失敗していたほどだ。
だからこそ、Ruby自らが協業先を探しているこの好機を、紀藤瑛介が逃すはずもなかった。
けれど――。
誰と組むにせよ、紀藤瑛介だけはありえない。
結城凝香はそのメッセージにすぐ返信し、紀藤瑛介の件は無視して、別の候補に当たるよう莉々へ指示を出した。
