第1章
「信也……信也、お願い。お母さんを助けて……助けてくれない?」
土砂降りの雨の中、和泉静留は豪邸の門前にひざまずき、卑屈なほどに泣きながら懇願していた。
黒いロールスロイスが敷地内からぬるりと現れ、静かに門を抜けていく。窓が半分だけ下がり、覗いたのは義姉――和泉白子の顔だった。口元を歪め、嘲るように言う。
「静留。今度はどんな新手でお金をせびるつもり?」
「違う……!」
静留は必死に首を振り、怯えた目で江原信也を見上げた。
「信也、お母さんは本当に病気なの。お願い……助けて。……子どものためだと思って」
ひざで二歩、にじり寄る。妊娠七か月近い腹は、不自然なほど大きく張っていた。
信也はその姿を見下ろし、吐き捨てる。
「腹の子が俺と何の関係がある?」
胸の奥が氷みたいに冷えた。――この男は、自分の子どもさえ認めない。
「和泉静留。まさか俺が、田舎から戻ってきたブスを本気で好きになると思った?」
信也は鼻で笑う。
「結婚初夜、俺はずっと白子と一緒だった」
「お前が寂しくて、どこの野郎と遊び呆けたかなんて知るかよ」
「……なに……?」
静留の顔から血の気が引く。
この一年の信也の振る舞いが、すべて一本の線でつながってしまった。
だから家に帰らない。だから自分を塵みたいに扱う。だから、妊娠しても――。
「……つまり、私を裏切って白子と……?」唇が震える。
「裏切り?」信也は眉をひそめた。
「お前が割り込まなきゃ、俺と白子はとっくに結婚してた。巣を乗っ取ったくせに、よく言う」
「それに、からかってただけだ。まさか結婚証明書が本物だと思ってた?」
容赦のない言葉の雨に、静留は目眩がした。
巣を乗っ取った? 違う――!
十数年前、静留は父に遊園地へ連れて行かれ、迷子になった。
そのせいで母は臥せり、父は当然のように白子の母へと流れた。――いや、正確には、ようやく本性をさらしただけだ。
連れ帰った私生女は、静留より二歳も年上だった。
その事実を知った母は、さらに病状を悪化させ、床から起き上がれなくなった。
それでも一年前、静留が和泉家に見つけ出されると母は少し持ち直した。静留は無理を押して、もともと自分にあるはずだった婚約を白子から取り戻した。
けれど、静留自身は劣等感でいっぱいで、結婚するつもりなどなかった。
それなのに――信也が自ら現れ、婚約を果たすと言い、友人たちにも紹介までしてくれた。
これで人生がやっと明るくなる。そう信じたのに――。
「静留、信也を責めないで」
白子が車から降り、静留を起こすふりをして肩に手を置く。
「だって、どんな男でも我慢できないでしょ? 世間知らずの田舎嫁なんて」
静留の体は急に寒くなったり熱くなったりして、耳に入る言葉が半分も届かない。
白子が口を寄せ、二人にしか聞こえない声で囁いた。
「欲張ったあなたが悪いの。私のものを奪ったんだから」
「だから――死んで」
言い終えると、わざと静留に突き飛ばされたように、よろめいて見せる。
「あっ……静留、私はただ、気持ちを切り替えてって言いたかっただけなのに……そんなに敵視しなくても……」
白子は委屈そうな顔を作った。
信也が怒鳴る。
「白子、そんな女のことなんか放っとけ。戻ってこい」
白子は従って車に戻り、ドアを閉める瞬間――まるで偶然を装い、静留の服の裾を挟み込んだ。
車が猛スピードで走り出す。
「――っ!」
静留の体が、凄まじい力で引きずられた。
「いやっ――!」
「助けて!」
突然の激痛に叫ぶ。だが、誰も見向きもしない。
破れた人形みたいに地面へ引きずられ、十数メートルも引っ張られたところで、視界がぐるりと回り――静留は真っ暗闇に落ちた。
……。
五年後。
H市殡儀館。
和泉静留は白い素服姿で、故人の最期の身だしなみを丁寧に整えていた。
「ママ、ママ、見て見て!」
末娘の華蓮が、牛柄のサロペットでとてとて駆けてきて、もちもちの団子みたいに静留の足へぶつかった。
「あっちにね、人がいるの。なんか、動いてる!」
袖をつかまれ、外へ引っ張られる。
よろよろの足取りに苦笑し、静留は華蓮を抱き上げた。
「華蓮、またお兄ちゃんに騙されたの? ここに来る人が動いたら、起き上がってあなたを捕まえるよ」
あの日、車に引きずられたとき――静留は死ぬと思った。
だが偶然通りかかった師匠に救われ、九死に一生を得た。
そして三つ子を産んだ。
ただし長男は生まれた瞬間、息をしていなかった。残った二人だけが生き延びた。
次男は翔太。末娘は華蓮。
そのことを思うと、静留の眉と目に、薄い陰りが落ちる。
「違うの、違うの!」華蓮はぶんぶん首を振る。
「ほんとに動いてる!」
華蓮に案内され、二人は隣の部屋へ向かった。
翔太が隅のベッドの前に立っていた。華蓮とそっくりの顔に、年齢不相応の落ち着き。
「ママ。この人、動く。助けられる。診療代もらえる」
少し間を置いて、付け足す。
「今回は多め。200万」
静留は師匠のもとで医術を少し学んだ。資格がないから、普段は近所の金のない老人にだけ手を貸す程度だ。だが、ときどき金持ちが「試してみる」と言い出すときは、それなりに受け取ることもある。
静留は近づき、男を観察した。
確かに、かすかな呼吸がある。
全身には骨が見えそうな深い傷がいくつも。刃物の痕――。
……ただ者じゃない。
身分証の類はどこにもない。迷いはしたが、命が消えていくのを見捨てることはできなかった。
「華蓮、ママの道具バッグ取ってきて」
「はーい!」
二人は声をそろえた。
すぐに医療バッグが運ばれてくる。
この先は血生臭い。静留は二人を外へ追い出し、針と糸で傷を縫い、骨のズレを整えた。
一通り終え、男の顔を見たとき――なぜだか、どこかで見た気がした。
胸が小さく跳ねる。静留はタオルで顔の血をぬぐった。
血が落ち、顔が完全に露わになった瞬間、息が止まった。
彫刻みたいな輪郭。墨を落としたような眉と目。高い鼻梁に、きゅっと結ばれた薄い唇。
そして――翔太と華蓮に、七、八分も似ている。
静留の脳裏に、数年前の夜がよぎる。
男の胸に刻まれた蛇の頭の刺青。獲物を狙う獣みたいに、いつでも自分を飲み込みそうだった。
その夜は何度も夢になって、静留を追いかけた。
静留は男の胸元へ視線を落とす。
傷は主に脚。だから服は脱がせていない。
いまなら――。
静留は深呼吸し、迷わず手を伸ばしてボタンを外した。
シャツが開かれ、鍛え上げられた体が覗く。厚い胸板、はっきり割れた腹筋。血が筋に沿って流れ、凄惨さの中に獣じみた色気が滲む。静留の呼吸がわずかに止まった。
――そのとき。
「ママがおじさんの服脱がしてる! ママ、スケベ! はずかしー!」
扉の方から二人の声。
振り向くと、翔太と華蓮が入口で積み木をしながら、両手で目を覆っている……ふりをしていた。指の隙間がでかすぎて、丸見えだ。
静留は顔をこわばらせ、ため息をつく。
「……また覗いたの」
言いながら男の胸へ目を走らせる。――刺青は、ない。
静留の胸に小さな失望が落ち、何事もなかったように男の服を整えてやった。
