第2章
だが、和泉静留はすぐに息をつき直した。
彼があの夜の男じゃないのなら、翔太と華蓮を奪いに来る者もいない――。
そう思った瞬間、けたたましい着信音が鳴り響いた。
電話の向こうから聞こえてきたのは、護工の小村の切羽詰まった声だった。
「和泉さん、大変です! さっき急に大勢が押し入ってきて、奥さまに手を出そうとしてるんです!」
「何ですって!?」
和泉静留の顔色がさっと変わる。
すぐに二人の子に留守を頼み、自分は療養院へと駆け出した。
あのとき、和泉白子に嵌められ、命を落としかけた。
それでも最後は師匠に救われ、出産の間際、静留は師匠に頼んで母を連れ出してもらったのだ。
だが、手当てが遅すぎた。
母はそのまま深い昏睡に沈み、二度と目を覚まさなくなった。
いまは西の療養院で、静留がひっそりと面倒を見ている。
いったい誰が、今になって母を狙うというのか。
不安と疑念を胸に病室へ駆け込んだ和泉静留の目に飛び込んできたのは、二人のボディーガードに隅へ押さえつけられている小村の姿。
そして、五年ぶりに見る和泉国見と和泉白子が、冷えきった目で看護師を見下ろしていた。看護師の手には注射器。母の血管へ薬剤を打ち込もうとしているところだった。
「お母さん!」
和泉静留は悲鳴のように叫ぶと、看護師を乱暴に突き飛ばした。
そのままベッドの前に立ちはだかる。
「何をするつもり?」
「……誰だ、お前は」
突然割って入ってきた和泉静留を見て、和泉国見が眉間に深い皺を寄せた。
「この療養院は、こんな簡単に部外者が入り込めるのか? 警備はどうした、警備は!」
和泉静留は冷え切った目で彼を見据え、皮肉げに唇を吊り上げた。
「五年も会わないうちに、実の娘の顔も分からなくなったんですか。和泉さん」
「和泉静留!?」
和泉白子が思わず声を上げた。
陶器みたいに白くなめらかな静留の顔を見つめ、愕然と目を見開く。
「……左の頬の痣、どうしたの?」
静留が引き取られてきたばかりの頃は、あか抜けず、おどおどしていて、左の頬には手のひらほどもある紫がかった赤い痣があった。
目をそむけたくなるほど醜い、と皆が陰で笑っていた。
だからこそ、和泉国見が実の娘だと認めても、和泉白子は一度だって脅威を感じなかった。
なのに今は違う。
あの痣は跡形もなく消え失せ、全身から漂っていた野暮ったさもなくなっている。
ただのTシャツにジーンズ姿だというのに、和泉静留は息を呑むほど美しかった。
それに比べて、和泉白子はどうだ。
仕立てのいいスーツをまとい、化粧も上品に整えている。どこを取っても隙なく飾っているはずなのに、静留の前では白鳥の隣に立つみすぼらしい小鳥にしか見えなかった。
和泉静留は問いに答えず、逆に問い返した。
「あなたたちこそ、何をしに来たの?」
ようやくボディーガードの拘束を振りほどいた小村が、よろめきながら静留に駆け寄る。
「和泉さん……この人たち、奥さまを安楽死させようとしてたんです!」
震える手で静留の腕にしがみつき、顔にはまだ怯えがべったりと貼りついていた。
その瞬間、和泉静留の目つきが鋭く変わる。
「和泉国見……母がこんな姿になっても、まだ放っておけないの?」
ここ数年、静留は師匠のもとで医術を学びながら、ずっと母の治療法を探ってきた。
そうして病状を調べるうちに分かったのだ。母が重い病に倒れ、意識を失ったのは、体内に何種類もの慢性毒を長年にわたって盛られていたせいだと。
毒は少しずつ積もり、やがて身体を内側から壊した。
「何を馬鹿なことを!」
和泉国見は即座に否定した。
「居場所を聞きつけたから見舞いに来ただけだ」
「見舞い?」
和泉静留は一歩、また一歩と彼に詰め寄る。
「何を見に来たんです? 母をどう始末するかですか? 愛人を一日でも早く正妻の席に座らせるために。――ふざけるのも大概にして」
和泉母が生きている限り、和泉白子の実母である林原梅子は、和泉家にいても所詮は日陰の女だ。
あの界隈では、男を奪ってのし上がった女だと誰もが知っている。社交の場へ出ても、腹の底では笑われるだけ。
だからこそ、あの連中は前から母を消したがっていた。
ただ、静留が先に動いて母を連れ出したせいで、手が出せなかっただけだ。
「この親不孝者が! 年長者に向かって、その口の利き方は何だ!」
痛いところを突かれたのか、和泉国見が顔を真っ赤にして手を振り上げた。
だが、その腕は途中でぴたりと止まる。
和泉静留が細めた目のまま、片手でしっかりと受け止めていた。
「あなたが年長者?」
静留は鼻で笑う。
「冗談きついわ」
まさか逆らわれるとは思っていなかったのだろう。
和泉国見の指先が、怒りでわなわなと震えた。
和泉白子が慌てて前に出る。
「どうしてそんな言い方するの? お父さんがこの何年、どれだけあなたたちを捜したと思ってるの。身体だってぼろぼろなのよ」
和泉静留は、血色のいい和泉国見の顔を一瞥し、嘲りをいっそう濃くした。
「和泉国見が年のせいで目がかすんでるのは仕方ないとして、あなたは若いくせに、もう目が見えないの?」
「もういい! 出て行け!」
和泉国見が逆上し、扉を指さして怒鳴り散らす。
けれど、和泉静留はぴくりとも動かなかった。
「和泉さん。一つだけ教えてあげます」
静かな声だった。だからこそ、ひやりと冷たい。
「ここは母の病室です。出て行くべきなのは、あなたたちの方よ」
和泉国見は一瞬きょとんとし、言葉を失った。
和泉静留が和泉家へ戻ったあとの日々は、地獄そのものだった。
礼儀を知らない、田舎臭い。そう決めつけられ、どれだけ努力しても和泉国見の目に入ることはなかった。
そのうえ和泉白子は、ことあるごとに難癖をつけ、罠を仕掛け、濡れ衣を着せた。静留はほとんど毎日のように家から追い出され、門の外に立たされた。
風の強い日も、雪の降る日もあった。
運が悪ければ、そのまま長時間放置された。
そのせいで、今でも左脚は冷えると鈍く疼く。
雨の日などは、骨の奥までじくじくと痛んだ。
それでも和泉国見は一度たりとも気にかけなかった。
外から拾ってきた犬猫に餌をやるようなものだ、とでも思っていたのだろう。食わせてやるだけありがたく思え、と。
だから今もなお、自分が静留に命令できると信じている。
「伯父さん、そんなに怒ってどうしたんです?」
病室の外から、柔らかな男の声がした。
江原信也が中へ入ってくる。
白いスーツに身を包み、立ち居振る舞いは上品で穏やか。知らない者が見れば、非の打ちどころのない好青年にしか見えないだろう。
その笑みの裏にある残酷さを知らなければ。
彼は和泉白子の隣まで歩み寄ると、ふと和泉静留の顔に目を留めた。
次の瞬間、その瞳の奥にねっとりとした興味が灯る。
「こちらは?」
江原信也が和泉白子に尋ねる。
和泉白子は、その一瞬だけ走った驚きと見惚れを見逃さなかった。
ぎゅっと拳を握りしめ、引きつった笑みを浮かべる。
「静留よ。……まさか、分からなかったの?」
和泉静留――。
江原信也は意外そうに目を細め、そのまま彼女の澄みきった顔をじっと見つめた。
胸の奥が熱を帯びる。
まさか、あの醜い女がここまで化けるとは。
最初からこんな顔をしていたなら、嫌悪感のあまり偽の結婚証明書で騙すような真似はしなかっただろうに。
……いや、今からでも遅くない。
どうせこいつは、昔みたいにまた自分に夢中になる。
そう考えた江原信也は、スマホを取り出し、笑みをいっそう柔らかくした。
「静留。戻ってきたなら、ひと言くらいくれてもよかったのに。LINE、交換しようか。何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくれていい」
「今はどこに住んでる? 仕事は? 必要なら、住む場所だって俺が用意するよ」
気遣わしげで、優しい口ぶり。
だが、和泉静留は吐き気を覚えた。
彼女は名刺を一枚取り出すと、ひらりと江原信也へ投げる。
「結構です」
にこりと笑う。
その笑みは、ひどく冷たかった。
「その代わり、私の商売にでも貢献してください。今の私は葬祭師ですから。今後、江原家で入用になったら、いつでもご連絡を」
「顔見知りのよしみで、一人なら1割引き、二人なら2割引き」
そして、わずかに首を傾ける。
「あなたご本人なら、半額にして差し上げます」
