第5章
江原信也は冷ややかに彼女を見据え、ふいに鼻で笑った。
「名目上とはいえ、お前の婚約者は俺だ。お前を管理する権利くらいある」
「江原様って、本当にお忙しい方は物覚えが悪いんですね」
和泉静留はくっと嘲って、瞳に戯れの色を滲ませると、顔だけ和泉白子へ向けた。
「飼い犬が勝手に吠えてるのに、躾もしないの?」
和泉白子は一瞬、言葉を失った。和泉静留が江原信也に、ここまで露骨な口を利くなど想像もしていなかったのだ。
それでも彼女は反射的にこの機会を掴み、江原信也の前で殊勝なふりをして諭す。
「静留、そんな言い方はだめよ。あなたが私と信也のことを嫉妬してるのは分かるけど、私たちは本気で愛し合ってるの」
白子が言い切る前に、静留が遮った。
「あなたたちが何しに来たかなんて興味ない。ここは歓迎しないから、帰って」
静留の目は澱んでいて、整った顔には氷みたいな冷たさが張りついていた。
「こいつにいちいち喋らせるな。今日は昔話しに来たわけじゃねぇ」
江原信也が苛立ったように割り込み、和泉静留を頭の先から足元まで舐めるように見た。
江原信也の我慢が切れたのを見て、和泉白子も取り繕うのをやめた。
バッグから1,000万の小切手を取り出し、和泉静留へ放る。
「静留。あなたが同意して、お母さんにうちの父と離婚させてくれるなら――この1,000万はあなたのもの」
白子の視線には得意げな色が浮かんでいた。まるで1,000万を差し出すこと自体が、静留への大恩赦であるかのように。
静留は小切手を淡々と一瞥し、唇の端に嘲笑を刻む。
「和泉白子。うちの両親の夫婦関係に、部外者のあなたが口を挟む筋合いはない。それに、たった1,000万で……あなたの母親を『浮気相手』から正妻に押し上げたいって? 寝言は寝て言って」
言葉は容赦なく尖っていた。とりわけ「浮気相手」という一語が針のように白子の胸へ突き刺さる。
白子が一番嫌うのは、自分を「浮気相手の娘」だと決めつけられることだった。
「本当の愛は、私の両親のほうよ。なのにあなたのお母さんが邪魔をしたせいで、何年もすれ違ったの!」
怒りに頬を震わせながらも、口ぶりだけは妙に整っている。
「そう」
静留は笑うでもなく、笑わないでもない顔で彼女を眺めるだけだった。
白子は胸の奥の怒りを押し殺し、遠くに立つ翔太と華蓮へちらりと視線を走らせると、一歩踏み込み、小切手を拾って静留の手にねじ込んだ。
「この1,000万があれば、あなたとその子たち、しばらく困らないでしょ。それでも足りないって言うなら……私だって黙ってはいないから」
語尾へ行くほど声は低くなる。しかし歯ぎしりするような憎悪は薄れない。
白子の感覚では、自分は十分に『面子』を与えている。江原信也の前で体裁を繕う必要がなければ、こんな丁寧な言い方など最初からしない。
静留が受けないなら、それは身の程知らずだ――。
「そう」
静留は取り合う気もなく、玄関を指した。
「今すぐ帰って」
「和泉静留、いい加減にしなさいよ! 1,000万は大金よ。あなたと、その2匹の私生子が暮らすには十分でしょ!」
白子は顔を強張らせ、毒のある言葉を吐き捨てた。
翔太と華蓮への侮辱が耳に入った瞬間、静留の胸の奥で怒りが一気に燃え上がった。
振り上げた手が、ためらいなく白子の頬を叩く。
ぱんっ。
白子の顔が横へ弾かれ、頬にはたちまち赤い手形が浮かぶ。静留の掌までじんと痺れた。
「私の子に、あなたが口出しするな。お金は持って帰って。離婚するかどうかは、母が決める」
鋭い眼差しで言い切り、小切手を突き返した。
白子は、子どもまで産んだくせにこんなに強気でいられる静留が信じられなかった。頬の灼ける痛みも相まって、今すぐ叩き返してやりたい。
そのとき――静留の背後から、翔太と華蓮がひょいと姿を現した。二人とも、手にはパチンコ。
翔太は輪ゴムを引き絞り、白子へ狙いを定める。幼い声に、ひやりとした硬さが混じった。
「わるいおばさん、ぼくのママをいじめちゃだめ!」
華蓮もパチンコを構え、まんまるな目に敵意を満たす。
白子は頬を押さえたまま、母子三人が一枚岩で向き合う光景を見て顔を曇らせ――やがて、ふっと笑った。施しでもくれてやるような軽さで言う。
「いいわ。子どものために、もう1,000万足してあげる。あなたが頷くなら2,000万。和泉静留、よく考えなさいよ。子ども2人抱えた女が、一生かかってもこんな額、稼げない。私がまだ我慢できるうちに離婚協議書にサインして。そうしたら、あなたたちは見逃してあげる」
甘い餌と脅しを並べられても、静留は揺れない。ただ子どもたちを背に庇い続けた。
その態度に、白子の堪えも尽きていく。
一歩詰め、静留の耳元へ顔を寄せる。声を落とし、ねっとりと脅した。
「昔のこと、知らないとでも思った? 私、動画を持ってるの。協力しないなら、ばら撒いてあげる。あなたも、その子たちも……二度と人前に顔を出せなくなる」
口元には柔らかな笑み。誰が見ても清楚で優しげに見える――頬の手形さえなければ。
静留の心臓が、どん、と沈んだ。
あの頃の出来事は、胸の奥に刺さったまま抜けない棘だ。何年も見ないふりをしてきたのに、白子はそこを平然と握ってきた。
「そんなの、信じろって?」
動揺を押し隠し、静留は平静を装う。
白子は勝ち誇った顔で、わざと甘ったるく声を作った。妙に鼻につく、ねじれた柔らかさ。
「和泉静留、道は二つだけ。お金をもらってサインするか、身の破滅を待つか」
言い終えると、二人の子へ視線を投げる。
「自分のことはどうでもいいとしても、この私生子――翔太のためには考えないとね?」
「――消えろ」
静留は冷たく吐き捨て、白子を突き飛ばした。
「私のことに口を出すな。両親のことに首を突っ込む資格もない。帰らないなら警察を呼ぶ」
白子はよろめき、羞恥と怒りで指先を震わせながら静留を指差す。
「あなた……っ」
「拡散するなら、先に言っておく。プライバシーをばら撒けば犯罪よ。それに――そこに映ってるのが私だって、どう証明するつもり?」
静留は、失うものがない者の強さで言い放つ。
その大胆不敵さに、白子は一瞬だけ言葉を失った。無意識に唇を舐め、眉間に皺を寄せる。
「まだ片付いてねぇのか?」
やり取りの間に、江原信也は煙草を一本吸って戻ってきていた。
不埒な視線が、和泉静留の身体の上を往復する。
「相変わらずいい身体だな。子ども二人産んでも、全然崩れてねぇ」
江原信也が来るなり静留へ意識を奪われたことで、白子の中の危機感はさらに膨れ上がった。
彼の袖を引き、わざと叩かれた頬を見せる。表情は涙ぐむ寸前のように作って。
「信也……静留が……」
