第6章
和泉白子が口を開きかけた、その出鼻を江原信也が苛立たしげに手を振って遮った。
視線は相変わらず和泉静留に焼きついたまま。口元には、軽薄な笑みが浮かんでいる。
「そんなに急ぐなよ。俺があいつに二言三言、話したって……お前が損するわけでもないだろ?」
その言葉に、和泉白子の頬は悔しさでさらに紅潮した。唇を噛み、瞳にうっすら涙が滲む。けれど、もう軽々しく言い返せない。ただ怨みのこもった目で、和泉静留を刺すように睨みつけた。
江原信也の前で、彼女は好き勝手に暴れられる立場じゃない。
白子が信也を怖がっても、静留は違う。
静留は冷ややかに信也を一瞥し、嫌悪を隠しもしない声音で吐き捨てた。
「見物が済んだなら、人を連れてさっさと消えて。目障り」
「はは、ずいぶん気が強いじゃねえか」
江原信也は怒るどころか、むしろ面白がった。
以前の鈍くて大人しい和泉静留より、爪を剥き出しにした今の静留のほうが、よほど目を引く。
二人の距離が詰まっていくのを見て、和泉白子の胸に危機感が跳ね上がる。
白子はもう、江原信也の前での「いい子」を取り繕う余裕もなく、強引に彼の腕を引き寄せて自分のそばに寄せた。
「信也……この子、前と違うの。あなたに何かしたらって、怖い」
声は甘く、柔らかい。けれど、その目の奥を走る嫉妬の色が、どうにも不釣り合いだった。
江原信也はくすりと笑い、指先で白子の鼻先を軽く弾いた。
そして横目で静留を見ながら、だらしなく言う。
「こいつに、そんな度胸あるわけねえだろ」
静留は、目の前で繰り広げられる茶番を冷ややかに見ているだけだった。吐き気がする。
「ねえ、お姉ちゃん。言うことは言ったし、できることもしたわ。あなたが拒むなら……こっちはこっちで、やり方を考えるだけ」
白子は引き延ばすのが嫌になったのか、信也と数言じゃれ合っただけで、視線をまた静留へ戻した。言葉の端々に、露骨な脅しが混じる。
だが静留は、もう相手をする気もない。顎をすっと上げ、門のほうを顎で示した。
「お帰りはあちら」
その気だるげな態度が、白子の神経をさらに逆撫でした。
「まさか、あの時の動画が私にないとでも思ってる?」
今この瞬間まで、白子は静留を「握っていれば従う妹」だと思い込んでいる。けれど、もう昔とは違う。
静留は臆面もなく言い返した。
「当時あれをやったのはあなたでしょ。手元に人に見せられないものの一つや二つ、あるのは当然」
そして、淡々と続ける。
「でも分かってるはずよ。それをばら撒いたら、まともに生きられなくなるのは……私だけじゃない」
その一言は、冷水を頭から浴びせられたみたいに白子を凍らせた。
背筋がひやりとした、そのときだった。
翔太が陶器の盆を両手で抱えて家から出てきた。中の水がちゃぷん、ちゃぷんと揺れている。
翔太は白子の前に立ち、小さな顔を見上げて無垢な表情をした。
「顔、汚れてるよ。拭いてあげる」
白子は胸の内に黒い苛立ちを溜め込んだまま、子どもにまで煽られたと感じて、ますます腹が立った。
「どけ! 誰があんたの薄っぺらい親切なんか!」
立て続けに思い通りにならず、白子ももはや「上品な自分」を保ちきれない。
だが、言い終えるより早く——翔太の手首がひゅっと跳ねた。
ばしゃあっ、と水が盆から舞い、白子の頭から容赦なく降り注ぐ。
冷たい水が髪を伝い、服を濡らし、肌に張りつく。みっともないほど惨めな姿になった。
「……っ! あんた!」
白子は怒りで全身を震わせ、手を振り上げて翔太を叩こうとする。
その手首を、静留が素早く掴んだ。ぎゅっと力を込めると、白子の口から悲鳴が漏れた。
「放して! よくも私に手を上げたわね! パパが許さないんだから!」
静留の目は冷え切っていた。
「触ったらどうなるか、教えてあげる」
静留は白子を見下ろし、低く言い放つ。
「私の子に手を出す権利が、あなたにあると思ってるの?」
江原信也が慌てて割って入り、二人の間を引き剥がした。形勢が悪いと見たのか、今度は仲裁役の顔で間に立つ。
「まあまあ、落ち着けって。お前ら、姉妹なんだろ? 話し合えば——」
「姉妹? 話し合い?」
静留は鼻で笑った。怯む気配など欠片もない。
「脅して、うちの子に手を出そうとして、それが『話し合い』?」
信也は刺々しい反応に、さすがに言葉を失った。
にらみ合いが続いた、そのとき。
華蓮も小さなプラスチック盆を抱えて、家の中からぱたぱたと駆けてきた。二人の前に立ち、澄んだ声で言う。
「お兄ちゃんがかけたのはお水でしょ。もっと『きれい』なのに替えてあげる」
白子が理解するより先に、華蓮は盆の中身を勢いよく放った。
びしゃっ。
鼻を刺すような刺激臭。液体が白子にかかり、白子の顔から一気に血の気が引いた。
——ホルマリンだ。
「ホルマリン!? あんた、頭おかしいの!?」
白子は悲鳴じみた声を上げて後ずさり、肌が焼ける想像に怯えるように自分の腕や服を払った。
幼い顔に浮かぶ小賢しい笑みに、驚きと怒りが一緒くたになって込み上げる。
江原信也も眉を寄せた。
この子どもたちが、ホルマリンまで持ち出すとは思っていなかったのだろう。彼はさりげなく一歩退き、母子三人との距離を取った。
「やりすぎだろ」
瞳に陰が落ちる。
「今日のこと、俺は絶対に忘れねえ」
その脅しにも、静留は腕を組んだまま平然としていた。
「好きにしなさい。私は待ってる」
それでも二人が動かないのを見て、静留は眉を軽く上げる。
「もう警察呼んだから。来たら言うわよ。住居侵入に、未成年への脅迫と威嚇だって」
口元がわずかに吊り上がる。冗談めかした様子はない。
白子は怒りと恐怖で顔を歪めた。ホルマリンの匂いで胃の奥がぐらつき、さらに頬の痕と濡れた服の不快感が追い打ちをかける。もう一秒もここにいたくない。
白子は江原信也の腕を掴み、引きずるように門のほうへ向かった。
「行くわ。こんなところで時間を無駄にする必要ない」
そして、振り返りざまに吐き捨てる。
「和泉静留……絶対に、代償を払わせる」
捨て台詞を残し、二人の足音は遠ざかっていった。
そのみっともない背中を見送りながら、翔太と華蓮は顔を見合わせてくすっと笑う。静留も思わず唇を弧にし、瞳に張りついていた冷えが少しだけほどけた。
家の中では、平岩空人が一部始終を聞いていた。
ベッドの背に身を預け、口元に気づかれない程度の笑みを刻む。
この女、ただ者じゃない。ついでに、あの二人の子どもも……相当だ。
だが、その気の強さがむしろ好ましい。
家まで押しかけられてなお、ひたすら縮こまって耐える——そんなのは、彼の流儀じゃない。
さっき口論が半ばに差しかかった頃、空人はすでに目を覚ましていた。
動けさえすれば、黙って眺めているつもりなんてなかったのに。
外で、華蓮が小さな顔を見上げ、不安そうに尋ねた。
「ママ……私たち、面倒なことになった?」
「ならないよ。二人とも、よくやった」
静留はふっと笑い、それからすぐに表情を引き締める。
「でも次はだめ。ホルマリンでふざけないで。危ないから」
さっき華蓮がそれを持ち出した瞬間、静留は手が滑って自分を傷つけるんじゃないかと肝を冷やしたのだ。
華蓮はぺろっと舌を出し、こくんとうなずいた。
