第1章

「疲れた?」

耳元で、男の掠れた、熱を含んだ声が落ちた。

林原知世はどうにか瞼を持ち上げる。柔らかな長い髪が、絹の枕に無造作に散っていた。

男の動きに合わせて、堪えきれず喉を反らす。白い首筋が弓なりになり、なめらかな線があらわになる。

「……ハーフタイム。少し休ませて」

声まで掠れていた。散々弄ばれて、体力はもう底だ。

宮崎直志は熱のこもった視線で彼女を見下ろし、ひと房の髪を指に絡めて、からかうように言った。

「もう降参? さっきまで俺のこと引っ掻く元気あったくせに」

林原知世は彼の胸元に残る数本の爪痕を見て、頬がじわじわ熱くなる。胸の内で悪態が漏れた。

二年も囲ってるのに、この男、体力が落ちるどころか増している。

腰が……折れそう。

宮崎直志は上から彼女の腰をがっちり掴んだ。頭上の灯りが落ち、もともと彫りの深い顔立ちに影が差す。彫刻家が溺愛する作品みたいな、危うい美しさ。

「年だから。君みたいな若い子には敵わない」

林原知世はようやく息を整え、手入れした尖った爪で彼の胸をカリカリと掻いた。小猫の八つ当たり。

宮崎直志がその手首を掴む。墨色の瞳の奥で、情の波が渦巻いた。

「姉さんは、俺の目にはずっと若い」

言い終えた瞬間、枕元のスマホが鳴った。

画面に躍る文字——『夫』。

氷水をぶっかけられたみたいに、甘い空気が一気に砕け散る。

宮崎直志の目が赤く沈む。

「……夫?」

唇を歪め、意味ありげに吐き捨てた。

「だから今夜、俺に別れ話をしたのか?」

「別れじゃない。取引を終わらせるだけよ」

林原知世がそう言って通話を切ろうとした、その前に——宮崎直志が一歩早く手を伸ばし、電話を取った。

受話器の向こうから聞こえたのは、陸原凛の苛立った声。

『林原知世、いつ帰ってくるんだ? 家で待ってるって言っただろ。俺に偉そうにするつもりか?』

さらに横から、柔らかく弱々しい女の声が割り込む。

『凛くん、知世に優しくしてあげて。そんなにきつく言わないで……』

林原知世の目が、すっと冷えた。

白石キキはなおも甘い声で言葉を重ねる。

『知世、陸原お爺さんがね、凛くんに連れて帰れっておっしゃってたの。意地を張っても、お年寄りを困らせちゃだめよ。私たち、もう家にいて……夜までずっと待ってたんだから』

声音は優しい。けれど「年長者を軽んじる女」という札を林原知世に貼りつけるには十分だった。

後半の言い回しも、妙に想像を掻き立てる。

陸原凛はいま、かつての婚居にいる。

こんな時間になっても帰らない林原知世は、外で何をしているのか——。

林原知世は含みを読み取り、瞳に嘲りが滲んだ。

二年ぶりでも、白石キキの手口は相変わらず幼稚。

既婚者と知りながら手を出しておいて、そのくせ入籍したその日に陸原凛を丸め込み、白石キキを連れて海外へ逃げた。

外で二年間、野良のつがいを気取って享楽三昧。陸原お爺さんが怒りで倒れて入院したことも、陸原家が笑いものになったことも、まるで気にしなかった。

林原知世は冷えた声で刺す。

「半日待っただけで耐えられないの? 私はあの夜、一晩待ったのよ。帰ってきたのは——あなたが白石キキを連れて出国したって知らせだけ」

陸原凛の怒気がさらに燃え上がる。

『林原知世、俺は付き合ってられないって言っただろ! いまどこにいる。今すぐ帰れ』

林原知世は眉間を寄せた。電話に意識が向きすぎて、隣の宮崎直志の目が一気に暗くなったことに気づかない。

陸原凛は見たくない。けれど陸原お爺さんだけは放っておけなかった。

こんな時間まで待たせている。

「……あとで戻る」

そう言った途端、胸元に置かれていた宮崎直志の手が、ふいに動いた。

彼は顔を上げ、耳朶を噛む。粘ついた声が曖昧に絡みつく。

「姉さん……本当に帰るの? 俺、あいつに負ける?」

もともと低く暗い声が、さらに落とされる。噛みしめる言葉のひとつひとつが、あからさまな誘いだった。

林原知世は宮崎直志を睨み、目で「黙って」と命じる。

陸原凛の婚内不貞は、皆が知っている。

それでも彼女は「被害者」の札を手放せない。陸原凛に付け入る隙を与えたら、主導権を失う。

陸原凛は受話器の向こうの気配を敏感に嗅ぎ取った。声が跳ね上がる。

『そっちに男がいるのか? 林原知世、いまどこだ!』

「聞き間違いよ」

林原知世はぶつりと切った。問い返す隙すら与えない。

スマホを無音にして放り投げる。

宮崎直志を見るなり、彼女は体を乗せた。上から見下ろし、喉仏に指を置く。上下に撫でるように滑らせる。

宮崎直志が思わず喉を鳴らした。

狐みたいに艶めく瞳を細め、林原知世が言う。

「さっき、わざとでしょ。何がしたいの? まさか——私の“後釜”でも狙ってる?」

意地悪く、張りのある胸筋を軽く叩く。

「答えなさい」

宮崎直志の目がさらに暗く沈み、低い声が落ちた。

「姉さんだって、俺がそう思ってるの、今日が初めてじゃないだろ」

「発想はいいけど、無理ね」

そう言いながら、林原知世の胸に微かな惜しさが過った。

宮崎直志は、欠点のない万能兵器だ。

顔も体も、腕もいい。だから二年もこの関係が続いた。

陸原凛には心底うんざりしている。だが陸原お爺さんの恩は、今も胸に残っていた。

林原家に駒として差し出されたあの日、温もりを「家族」として与え直してくれたのは、陸原お爺さんだった。

老爺さんの容体が悪化していなければ、陸原凛を慌てて呼び戻すこともなかったはずだ。

林原知世が言葉を継ごうとした瞬間、宮崎直志の唇がせっかちに重なってきた。残酷な言葉を封じるみたいに。

林原知世は心の中で小さく息を吐く。

……まあ、いい。

今日の福は今日のうちに。

――その頃、別の場所。

陸原凛は電話越しに聞こえた微かな声が引っかかっていた。弱かったが、確信がある。あれは男だ。

こんな夜更けに、林原知世が男と一緒にいる?

白石キキが彼の陰った顔色を窺い、囁く。

「凛くん、考えすぎよ。知世はいま、男性のお客様と商談してるだけかも……」

「こんな時間に商談があるか?」

陸原凛は勢いよく立ち上がり、胸の奥の所有欲が咆哮した。

「もし林原知世が俺に背くことをしたなら、絶対に許さない!」

嫌な予感を無理やり押し殺すが、胸のざわめきは消えない。

――そしてホテル。

戦いはようやく終わった。

林原知世は指一本持ち上がらないほど疲れ切っていた。

宮崎直志はいつものように彼女を抱え、浴室へ連れて行く。二年間続いた習慣。

泡に包まれる湯の心地よさに、林原知世は目を閉じた。

宮崎直志は彼女を洗い終えると、バスタオルで包んでベッドへ戻し、自分も後始末へ向かう。

だが戻ってきた彼を迎えたのは——林原知世が差し出す一枚のカードだった。

「あなたは本当に良かった。どこもかしこも、満足してた」

そう言って、少しだけ視線を落とす。

「でも、夫が帰ってきたの」

「だから、ここで終わり。このカードは——慰謝料」

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