第1章 彼女のために死ぬ

菅野真理は乱暴に汚れたマットレスへ放り投げられた。冷たい鎖が、手首と足首を容赦なく締め上げる。

白いワンピースは引き裂かれ、もはや原形を留めない。剥き出しの肌には青紫の掴み痕が点在し、そこに生々しい赤い痕まで混じっていた。

パンツ一枚の男が二人。脂肪と筋肉の塊みたいな身体を揺らしながら、いやらしく距離を詰めてくる。濁った目の奥で獣じみた欲望がぎらついていた。

手には鞭。加えて、目を背けたくなる道具の数々。指先で弄びながら、ねっとりした笑い声を漏らす。

「今日のは当たりだな。肌が柔らけぇ……つまんだら水が出そうだ」

「しかもお嬢様なんだろ? へへ……今日はツいてるわ」

真理は必死にもがいた。けれど鎖はびくともしない。喉が裂けそうな声で叫ぶ。

「やめて! 触らないで! 石橋航平! 菅野彩乃! 絶対に許さない、地獄に落ちろ!」

どうして――あのクズ男女が、こんなにも下劣で残酷なやり方で、自分の人生を叩き潰そうとしているのか。

倉庫の入口。

石橋航平は菅野彩乃の腰を抱き、まるで芝居でも鑑賞するように、悠々とその光景を眺めていた。

菅野彩乃は歪んだ快楽の笑みを浮かべ、甘ったるい声で言う。

「ゆっくり遊んで。すぐ殺しちゃダメよ。あとで――石橋結翔がどう死ぬか、目の前で見せてあげるんだから」

石橋結翔。

あいつら、石橋結翔にまで手を出す気だ。

石橋結翔――石橋家の当主。権勢の頂に立つ男。

考える暇もない。男のざらついた手が真理の脛を撫で、もう片方の手が破れた布地を力任せに引き千切る。

「いやっ!」

絶望の悲鳴。身体を丸めようとするが、別の男が肩を押さえつけた。骨が軋むほどの力。

汚れた手が、いよいよ最も触れてほしくない場所へ伸びてくる――その瞬間。

ドンッ!

凄まじい轟音が倉庫を揺らした。

鉄扉が恐ろしい力で吹き飛び、破片が雨のように散る。その中心に、殺意を纏った影が立っていた。

石橋結翔――!

来た。ほんとうに、来てしまった。

自分は彼をあれほど深く傷つけたのに。

それでも、危険を知れば、真っ先に駆けつける。

黒の服。氷のように整った顔。眼は赤く染まり、冷気すら漂わせている。

握られたナイフの刃先から、まだ血が滴っていた。死神がそのまま降り立ったようだった。

暗がりを貫く視線が、ベッドの上――服を乱され、男に押さえつけられている真理へ突き刺さる。

その瞬間。

彼の眼の赤が、溢れそうに濃くなる。

「――死にたいのか」

結翔の身体が、影のように揺らいだ。

ナイフが空気を裂き、ヒュッと甲高い風切り音が走る。

「ぐっ……!」

「ぎゃっ……!」

短い悲鳴がほぼ同時に弾けた。

二人の男は、彼の動きすら視認できなかったのだろう。喉元が正確に掻き切られ、血が噴水みたいに噴き上がった。

電光石火。

真理の目の前で、悪夢の歯車が叩き折られた。

「結翔……」

声にならない。涙が堰を切る。

航平と彩乃の顔色が一気に変わった。結翔が外の見張りを突破してくる速さも、強さも、想定外だったのだ。

結翔は二人を見もしない。

ベッドへ駆け寄り、鎖を断ち切る。躊躇なく上着を脱ぎ、ほとんど裸同然の真理を包み込んだ。

「大丈夫だ。俺が来た」

真理の涙が溢れる。怖かった、悔しかった、後悔している――言いたいことは山ほどある。

けれど、その瞬間。

異変。

影の隅から男が飛び出した。怨嗟に狂った眼。握ったナイフを、結翔の背中へ突き立てる勢いで――!

「だめっ!!」

叫びは届かない。速すぎる。

結翔は背後の殺気に気づき、身を翻そうとした。だが一瞬だけ、真理の顔――恐怖に凍りついた瞳を見て、動きがほんの僅か、鈍った。

ぐちゅり、と嫌な音。

ナイフが背中から深々と刺さり、胸を貫いた。

血に濡れた切っ先が、胸元から突き出ている。

温かい液体が、真理の頬へぶちまけられた。

結翔の身体が大きく震える。

けれど彼の目に、痛みも恐怖もない。あるのは――底知れない名残と、真理への心配だけ。

笑おうとしたのだろう。

「怖くない」と言おうとしたのだろう。

しかし開いた口からこぼれたのは、言葉ではなく、大量の血だった。

刺した男は、あっけに取られたように一瞬固まった。次いで血の混じった唾を吐き捨て、悪態をつきながらナイフを引き抜く。

結翔の身体が痙攣し、傷口からさらに血が溢れ、床へ広がっていく。

世界が、赤く染まった。

真理は呆然と、結翔がゆっくり崩れ落ちていくのを見ていた。思考が、真っ白になる。

死んだ……?

自分を助けるために……死んだ?

男が結翔の動かない身体を足で蹴り、息がないのを確かめる。

しゃがみ込み、顎を掴んでその美しい顔を無理やり持ち上げた。

「ちっ、女より綺麗なツラしやがって……」

眼の奥で、歪んだ欲が光る。乾いた唇を舌で舐め、にやりと笑った。

「生きてるうちは触れねぇ。だが死んだら――俺、こんな極上の男、味わったことねぇんだよなぁ」

言いながら、男はズボンの前に手をかけた。意図は明らかだった。

「やめて! 触るな! このクソ野郎、離して!!」

真理は裂けるように叫び、どこから出たのか分からない力で後ろの手下の拘束を振りほどく。

そして結翔の冷えかけた身体へ覆いかぶさり、盾になるように抱きしめた。

チンピラは一瞬たじろぎ、すぐに逆上する。

「クソ女! 死にてぇのか!」

手を伸ばし、髪を掴もうとした、その刹那――。

真理の視界の端に、結翔の手元近くへ転がったナイフが映った。

迷いはない。

真理はナイフを掴み、全身の力を叩き込んで、男の胸へ突き立てた。

「があああっ!」

凄絶な悲鳴。男は信じられない顔で胸を押さえ、そのまま倒れ込む。身体が数度痙攣し、やがて動かなくなった。

速すぎる反撃に、周囲が呆然とする。

真理は血の滴るナイフを握ったまま、結翔の蒼白な顔を見下ろす。

悲しみと絶望が、津波みたいに押し寄せて、息ができない。

――もう、無理だ。

真理は、凄惨な笑みを浮かべた。

残った連中が我に返る前に、ためらいなく刃先を自分の心臓へ向ける。

ずぶり。

温かい血が一気に溢れ出し、世界が滲む。

意識が溶けていく最後の瞬間、真理は必死に手を伸ばし、結翔の冷たく硬い指を握った。

石橋結翔……ごめんなさい……。

もし、もう一度やり直せるなら。

傷つけた奴らに、百倍、千倍の代償を払わせる。

そして、あなたを――ちゃんと愛する。

――

「真理! 何ぼーっとしてんだよ。早く乗れ! 今出ないと間に合わないぞ!」

聞き慣れた催促が、血の悪夢を引き裂いた。

真理は激しく息を吸う。心臓が暴れ、眼前にはまだ――結翔が死の間際に向けた、あの眼差しが焼き付いている。

はっと顔を上げる。

菅野家の裏門、人気のない路地の入口。

自分は、そこに立っていた。

少し先。黒い車の中に石橋航平がいて、苛立たしげにこちらを見ている。

――どうして。

自分はあの汚れた倉庫で、死んだはずなのに。

次の瞬間、頭の中で雷鳴が弾けた。

これは……やり直しだ。

前世、航平と駆け落ちして家を出た、その夜に戻っている。

そして今夜――石橋結翔は正式に海城へ到着し、菅野家へ結納の話をしに来る。

身体が震えた。

まだ何も起きていない。結翔は、まだ死んでいない。

間に合う。取り返せる。

「真理? 聞いてんのか。早く乗れよ! 結翔さんが来る前に――」

航平が苛立ち混じりに手を伸ばし、真理の腕を掴もうとする。

次の瞬間、真理はその手を叩き払った。

力が強すぎて、航平がよろめく。

「触らないで」

かすれた声。そこに乗るのは、濃い憎悪と、隠しもしない嫌悪。

航平が呆然と固まる。

「真理……お前、どうしたんだ」

真理は拳を握り締めた。爪が掌へ食い込み、鋭い痛みが意識を冷やす。

今は、まだだ。

ここで全部をぶちまけるな。

細い雨の中、真理の声ははっきりと冷たく響く。

「石橋航平」

名を呼び捨てにされ、航平は一瞬たじろいだ。

「帰って。私は、あなたと行かない」

「は……? 何言ってんだよ。約束しただろ? 俺たち――」

真理は口元を、極限まで嘲った弧に歪める。

そして一語ずつ、刺すように問い返した。

「あなたと約束したのは――私じゃないでしょ?」

航平の顔が引きつる。

真理はもう見ない。踵を返し、反対方向へ歩き出した。

石橋結翔。

今度は、私があなたのところへ行く。

その頃、菅野家の別荘前には黒塗りの高級車が何台も並び、闇の幽霊みたいに静かに停車していた。

正門が開く。

菅野彩乃が白いワンピース姿で駆け出してくる。焦りと心配を貼りつけた顔のまま、先頭のロールス・ロイス・ファントムへ一直線だ。

窓がゆっくり下がる。

雨の帳越しでも分かる、冷え切った横顔。周囲の空気を押し下げるほどの低気圧。

彩乃は涙声を作り、言いにくそうに、それでも痛切な調子で告げた。

「結翔様……! やっと来てくださった……! 真理が……真理が航平様と一緒に逃げてしまって……止めても、どうしても……!」

「それで……『死んでも結翔様とは結婚しない』って……」

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