第5章 夫婦関係を育む
石橋結翔の全身から放たれていた圧が、ふっと固まった。
彼は彼女の手首を乱暴に掴む。骨が軋むほどの力に、菅野真理は思わず眉をひそめた。
「菅野真理……自分が何を言ってるか分かってるのか?」
掴まれた箇所に薄い赤みが浮かび上がる。真理は視線を上げ、言葉を選ぶように口を開いた。
「……僭越ながら。もしかしてお薬に、まだ気づかれていない……相性の悪さがあるのでは、と」
「お前は、何を知ってる」
低い声。ひとつひとつの言葉が氷みたいに冷たく、疑いを隠そうともしない。
彼女の一言は、深い淵へ投げ込まれた小石だった。水面に広がる波紋は、彼の胸の奥を今までにないほど揺さぶっていく。
もし――彼女の言うことが本当なら。
毎日、当たり前のように口へ運ばれてきたものは、命を繋ぐ薬なのか。それとも、じわじわと首を絞める毒なのか。
いったい誰が。どこまで手を伸ばしている。
……もし、嘘なら。
光のない瞳が菅野真理を射抜き、石橋結翔は彼女の手首を放った。
「出ていけ」
菅野真理はこの時ばかりは言い返さなかった。
「分かりました。じゃあ、着替えを用意してきます」
寝室へ向かうと、目に入るのは黒、黒、黒。部屋全体が沈んでいる。だから日頃の石橋結翔は、表情ひとつ変えない人形みたいに見えるのだろうか。地位の高い人間は、黒で自分を隠すのが好き――そんな偏見が頭をかすめる。
死んだみたいな空気。
真理は小さく首を振り、部屋の中を見回す。ちょうど、あらかじめ用意されていたらしい一着が置かれていた。
薄いグレーのスーツ。少し色褪せたようにも見えるが、生地の質は悪くない。
ただ――石橋結翔の雰囲気には、どうにも合わない。
長くそばにいる執事が、彼の好みを知らないはずがない。となると、わざと?
真理はクローゼットを開け、明日出社するための服を自分の手で組み合わせていく。
自分の世界に入り込みすぎて、背後に落ちる影に気づかなかった。
扉のところに石橋結翔が凭れていた。視線は真理の手元、彼の服を整える仕草を冷ややかに追っている。
「何をしてる。いつ、入っていいと言った」
声に弾かれたように、真理は顔を上げてすぐ彼の前へ歩み寄った。
「怒らないでください。だって……私たち、一緒に住むんですよ? それに婚約してる関係なら、ちゃんと距離も縮めないと」
「妻がするようなことをしたかったんです。明日のお仕事の服を合わせるとか。……でも安心して、部屋のものは勝手にいじってません。気になるなら確認してください」
胸の前で小さな手をぶんぶん振る様子は、怯えた兎みたいだった。
石橋結翔は目を伏せ、彼女が揃えた服へ視線を落とす。
「……風呂に入る。出ていけ」
「でも、目が……。手伝いましょうか? 大丈夫です!」
菅野真理は勢いで石橋結翔の手を掴み、そのままバスルームへ引っ張っていく。
心臓がどくどくと跳ねた。人生をやり直したはずなのに、異性の身体にここまで近づくのは初めてだ。しかも相手は石橋結翔。
石橋結翔は拒まない。何も言わない。ただ――この女が何を企んでいるのか、それを見極めるだけ。
身長差は、頭ひとつ分。真理は背伸びをして、シャツのボタンを外していく。
布が滑り落ちた瞬間、目に入ったのは思わず息を呑むような身体だった。
指先がうっかり胸の筋肉に触れ、真理は慌てて視線を落とす。
前の人生、私って本当に見る目がなかった。こんな男を放っておいて、あのクズを選ぶなんて。胸も腹も、全部が桁違いじゃない――。
「いつまで見てる。いっそ触ってみるか?」
からかうような言葉。けれど声の温度はどこか遠いまま。
「い、いりません!」
真理は手を引っ込め、顔を熱くしながら早口になる。
「結婚したら、機会はいくらでもありますし……! あとはご自分で。私も、さすがにこれ以上は……」
逃げるようにバスルームを出ていく背中を見送り、石橋結翔の口元が、ほんのわずかに持ち上がった。
寝室を出て廊下へ出ると、すぐ耳に入ってきたのはひそひそ声だった。
使用人たちがこちらを見て、わざとらしく言う。
「世の中、運のいい人っているわよね。生まれながらのお嬢様。でもお嬢様って、教養もお上品さも――あれ? 自分から身体を差し出して媚びるのって、そういうのだっけ?」
「ねえ。しかも他の男とも切れてないって噂。結翔様も、どこがいいんだか。どう見てもビッチでしょ」
菅野真理は笑った。目だけが冷たい。
ゆっくり歩み寄り、低く言い放つ。
「私がこの家に来た以上、私はこの家の奥様です。ここで働き続けたいなら、口の利き方くらい覚えてください」
「今回だけは警告にしてあげます。でも次は――口の汚い人には、出て行ってもらいます」
「真面目に働く人には、結翔様の前できちんと評価も伝えます。年末、いい形で迎えたいでしょう?」
使用人たちは顔色を変え、口を噤んだ。正面から逆らう度胸はない。
だが、陰では別だった。
彼らは成田樹のもとへ集まり、泣きつくように不満をぶつける。
「成田さん、菅野さんはさすがにやりすぎです。私たちが少し噂話をしたって、結翔様だって今まで咎めたことないのに。いきなり奥様ぶって説教なんて」
「そうですよ。前だって成田さんに口答えしたじゃないですか。成田さんは結翔様のそばに長年いる方なのに。普通なら、ああいう新人こそ成田さんの指導を受けて、結翔様に気に入られる術を学ぶべきでしょう?」
成田樹の胸にも、じわりと不快が溜まった。
「……言いたいことは分かった。覚えておく。機会を見て、俺からも話しておく」
それからというもの、菅野真理は意識的に使用人へ細かな指摘を入れた。清掃の仕上げ、置き方、拭き残し――重箱の隅をつつくように。
彼らに思い知らせるためだ。自分を敵に回すと、面倒になると。
積もりに積もった怨気は、ほどなく爆発する。
書斎。
成田樹と使用人たちは、石橋結翔の前で一斉に訴えた。
「結翔様、菅野さんがあなたのいないところで、どれほど私たちに当たっているか……ご存じないでしょう」
「何をしても気に入られません。いちいち粗探しばかりで……。私もこの家で長く働いてきました。結翔様が何もおっしゃらないのに、あの方は来た途端にあれこれと。そんなに私たちが気に入らないなら、いっそ解雇していただいたほうが……」
「そうです。ガラス一枚、五回も拭き直させられて。私はお嬢様じゃありません。手だって荒れてしまいます」
石橋結翔は表情を読ませないまま、指先で机を軽く叩いた。コツ、コツ、と乾いた音。
「……呼べ。菅野真理を」
同じ頃、使いの者が真理のもとへ来て頭を下げる。
「菅野さん、結翔様がお呼びです」
真理は眉を上げた。石橋結翔のほうから呼ぶなんて珍しい。
書斎へ入った瞬間、空気が荒れているのが分かった。視線が突き刺さる。机の上も、どこか落ち着かない。
「私に、何の用ですか?」
成田樹が先に口を開いた。
「菅野さん。使用人に不満があるなら、正面から言えばいい。日常の些細なことで嫌がらせをする必要はないだろう」
「今日は結翔様もいらっしゃる。言いたいことがあるなら、ここで全部言ってくれ」
使用人たちは恨みがましい目で真理を睨み、成田樹の目にはどこか痛快さが滲んでいる。
ただひとり、石橋結翔だけが――何も語らない。
真理は無意識に拳を握りしめた。掌に汗が滲む。
(……どう思うの?)
(彼は、私を――)
その答えが怖くて、真理は石橋結翔の顔をまっすぐ見られなかった。
