第6章 結翔様が強引に妻を守る
菅野真理はくすりと笑うと、そのまま石橋結翔のそばへ寄り、甘えるように彼の腕に抱きついた。
「結翔。この家の使用人が何か間違ったことをしてたら、私が指摘しちゃいけないの?」
「私をここに住まわせたのって、奥様って立場をくれたからじゃないの?」
そう言い終えるなり、彼女は拗ねたように石橋結翔の腕を振りほどいた。
「だったら、ここにいる意味なんてない。権限は何もないくせに、外の人間にまで侮られて――これのどこが石橋夫人なのよ」
石橋結翔は、この家に女が一人増えただけで、これほど神経を使うのかと初めて思い知らされた。これまでなら取るに足らない小事も、こんなにも面倒になる。
「この家で、誰がお前をいじめる?」
菅野真理は唇を尖らせ、不満げに言い返す。視線は落ち着かず、石橋結翔の顔をちらりちらりと窺っていた。
「いま、まさにそうじゃない」
「あなたが綺麗好きだから、ちゃんと丁寧にやるように言っただけ。あなたのためよ」
「それに私、言ったでしょ。仕事がきちんとしてたら年末にボーナス申請だってするって。――みんなに、そう言ったよね?」
菅野真理が使用人たちをまっすぐに見据えると、視線を浴びた面々は後ろめたそうに一斉に俯いた。
ここまで来て、石橋結翔もようやく事情を飲み込む。
「彼女は俺の婚約者だ。この屋敷の、未来の奥様でもある」
「次に同じことが起きたら、自分で成田さんに辞表を出せ」
成田樹虎の肩がびくりと跳ねた。名指しではないのに、明らかに自分へ向けた言葉だと分かる。
「聞いたな? こんな小さなことで結翔様の前まで持ち込むな。さっさと散れ!」
書斎はほどなく静けさを取り戻した。
菅野真理は嬉しそうに石橋結翔を見上げ、肩へ手を置いて揉みはじめる。
「今の一言があれば、あの人たちも私を見下したりしない」
石橋結翔は彼女の媚びるような手つきを受け入れる。少なくとも今のところ、危険な匂いは表に出していない。
一階は静まり返り、石橋結翔と菅野真理は書斎にいた。
「もしもし」
実家で、成田陽菜が電話を取る。
「結翔様から、何かございましたか?」
電話口の使用人は、きょろきょろと周囲をうかがい、誰もいないのを確かめてから、焦った声で言った。
「大変なんです」
「結翔様の婚約者――あの菅野さんが屋敷に住み始めました。あれ、どう見ても……ビッチみたいな格好で。結翔様をたぶらかす気ですよ、きっと」
成田陽菜の指先に力が入る。スマホを握る手が、ぎゅっと締まった。
「……今、何て言ったの。結翔様の、婚約者?」
成田陽菜はベッドの上で跳ね起きる。
「ちゃんと説明して。どういうことなの?」
使用人は、起きたことを最初から最後まで包み隠さず話した。聞き終えた成田陽菜は、居ても立ってもいられない。
「すぐ戻る」
翌日。
菅野真理は、スマホの着信音で叩き起こされた。ぼんやりと目を開け、通話ボタンを押す。
「真理……石橋さんのところで、ちゃんとやれてるか?」
その声を耳にした瞬間、菅野真理の眠気は一気に吹き飛んだ。
「……父さん?」
そう呼びはしたが、感情は乗っていない。驚きが勝っていた。
「真理。石橋さんのところに住み始めて、もう何日も経つだろ。最近な、父さんの体調があまり良くないんだ。帰ってきてくれないか。ずっと顔も見てない」
菅野真理はすぐに答えなかった。菅野家は彼女にとって檻だ。親情など、とっくの昔に死んでいる。
沈黙が続くと、菅野父はさらに畳みかけた。
「真理。父さんの言うことが信じられないのか? 医者も何度も来てるのに、お前は一度も家に入ろうとしない。もしものことがあったら……帰りたくても間に合わないぞ」
受話器の向こうで、激しい咳が続く。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……分かった。あとで帰る」
菅野真理は起き上がり、ロングワンピースを一枚選んで身につけると、石橋家の運転手に頼んで菅野家へ向かった。
車のドアが開き、菅野真理が降りる。目の前に広がる菅野家の別荘の門を一瞥しても、瞳には何の未練も宿らない。
玄関を押し開けると、ソファに座る菅野父は、妙に血色がいい――どころか、ぴんぴんしていた。
嫌な予感が背中を撫でる。
「父さん、どこが具合悪いの。医者は何て?」
菅野父は隣の空いた席を指し示し、笑う。
「そう言わなきゃ、お前は帰ってこないだろう?」
「石橋さんのところで、よほど良い暮らししてるみたいだな。見ないうちに、ずいぶんふっくらしたじゃないか」
菅野真理は長居する気がない。
「体に何もないなら、もう帰る」
踵を返したその瞬間、玄関には使用人が左右に立ち、彼女の行く手を塞いだ。
菅野真理は眉をひそめ、怒りを抑えた声で問う。
「父さん、どういうつもり?」
「本当に体調が悪いなら、戻って孝行するのは当然よ。でも――用があるなら最初から言って」
菅野父は、どこか嬉しそうに笑い、娘の顔を眺めた。自分と似た輪郭が、余計に気に障るようにも見える。
「真理。外から戻ってきて十分もしないうちに帰ろうとする。父さんは、お前に会いたいだけなんだよ。だから少し手を使った」
「お前は、父さんの親心ってものが全然分からないなあ」
今日は、この扉からは出られない。
菅野真理は諦めたように、菅野父の正面のソファへ腰を落とした。
「今日は帰らなくていい。使用人に好きな料理を作らせる。久しぶりに一緒に食事しよう」
理由のない優しさほど、気味が悪い。
「いらない。私が長く外にいたら、結翔が気づく。あの人、機嫌が読めないの。ようやく少し信頼を得たところだから、戻らなきゃ」
菅野真理ははっきり断る。
菅野父は、その言葉を待っていたかのように口元を緩めた。
「真理。お前と石橋結翔に婚約を結ばせたのは、菅野家にとって最良の一手だった」
「いずれお前たちは正式に結婚する。石橋結翔は、俺の婿になる」
「その婿に――義父の頼みごとをひとつ聞かせるくらい、難しくないだろう?」
菅野真理の腹の底が冷える。
病気を装って呼び戻したのは、この瞬間のためだ。
返事をしない彼女の耳に、父の声が粘ついて絡みつく。
「今は婚約者なんだ。お前だって言ってたじゃないか、彼はお前を信じてると。別に殺しだの放火だのをさせるわけじゃない」
「会社の資金繰りが少し苦しい。結翔に一時的に回してもらえ。なあ、真理。頼むよ」
慈しむような目。けれど菅野真理には、それが脅しだと分かる。
「……彼は、引き受けない」
石橋結翔がどう答えるか以前に、菅野真理は石橋結翔をこの泥沼に巻き込みたくなかった。
菅野父の声が、ぴたりと冷える。
「どうして同意しないと決めつける。お前は石橋家に嫁ぐんだ。菅野家のために動くのが当然だろう!」
