第8章 密会していると濡れ衣を着せられる
彼は何も言わず、彼女の口から説明が出るのを待った。
菅野彩乃の糾弾は、毒を塗った針みたいに鋭い。
その場にいる誰もが、石橋結翔の全身から滲み出る、肌を刺すような冷気をはっきり感じ取っていた。
菅野真理は、最初の衝撃が過ぎたあと――胸の底から湧き上がってきたのは、怒りだった。
菅野彩乃へ冷えきった視線を向け、唇の端を嘲るように吊り上げる。
「密会? 菅野彩乃、作り話の腕も落ちたわね」
石橋結翔の腕に絡めていた手をほどく。だが怯んで退くどころか、背筋をぴんと伸ばし、階段の踊り場――ひどく目立たない角へ向かって、一歩、また一歩と踏み出した。
周囲が訝しむ中、つま先立ちになって装飾用の花瓶の陰、その隙間へ指を差し入れる。
取り出したのは――ボタンほどの小さなカメラだった。
「これ、ここに仕掛けたのは結構前よ。あなたたちが何を話したか、全部ここに残ってる」
カメラを手に、真理は石橋結翔の前まで戻る。
「私が騙されて家に連れ戻されたこと。部屋に閉じ込められたこと。さっきも、石橋航平に連絡させようとして無理やり――全部、入ってる。結翔が疑うなら、今ここで確認して」
菅野父と菅野母の顔から、さっと血の気が引いた。自分たちの家の中に、こんなものが仕掛けられていたなんて――想像すらしていなかったのだろう。
菅野彩乃の顔色は、さらに最悪だった。
石橋結翔は、カメラに手を伸ばさない。
わずかに顎を上げ、サングラス越しの視線が菅野家の面々をなぞる。怯え、狼狽え、言い訳の形も作れない顔。
そして最後に――菅野真理へ戻った。
張り詰めた沈黙の中で、彼はゆっくり手を上げ、カメラを受け取る。
次の瞬間。
指先に、ほんの少し力がこもった。
カチン――乾いた音。
小さなカメラは、彼の掌の中で粉々に砕けた。
低い声が、静まり返ったリビングにくっきり響く。
「信じる」
菅野真理は呆然と彼を見た。
足元に散った破片を見た瞬間、鼻の奥がつんと熱くなり、目の縁が痛いほど滲む。
確認すら、しない。
彼は――ただ、彼女を信じた。
石橋結翔はもう菅野家の誰も見ず、真理へ向き直る。
「行くぞ」
菅野真理は赤くなった目を強く瞬き、込み上げるものを押し込めた。小走りで彼の隣へ戻り、腕に縋りつく。今度は、さっきよりもずっと強く。
石橋結翔が吐き捨てるように告げる。
「人は連れていく。真理は俺の婚約者だ。文句はないな」
それだけ言い残し、菅野真理を連れて玄関へ。
菅野家の連中は顔面蒼白のまま、石像みたいに立ち尽くしていた。
車の中。
菅野真理は隣に座る石橋結翔の横顔を、何度も盗み見る。
小さな両手をぎゅっと組んだまま、唇を噛んで言った。
「ごめんなさい……お母さんの形見、どうしても取り戻したかった。でも、それを交換条件にするつもりはなかったの」
車内の淡い灯りが、彼女の頭を柔らかく照らし、いっそう小さく見せる。
「構わない。取引のひとつだ」
――俺のものは、そう簡単には奪えない。
菅野真理は目を瞬く。
顔を向けると、彼は相変わらずサングラスのまま。横顔の線は冷たく硬い。けれど、その声に嘘はなかった。
……慰めて、くれているの?
カングランへ戻る頃には、真理は心身ともに限界だった。
「先に部屋で休みます。今日は……ありがとう」
階段を上がっていく背中を、石橋結翔は無言で見送った。
菅野真理が客室のドアを開け、スイッチを押す。
ぱっと灯りが点いた瞬間、眉がきつく寄った。
――荒らされている。
クローゼットの扉は半開き。引き出しは閉まりきっていない。ドレッサーの小物も、置き方が違う。
慌てて確認する。貴重品や重要な書類は身につけていたから無事だ。だが、私的な領域を土足で踏みにじられたような不快感が、胃の奥をひりつかせた。
真理は顔を沈めたまま階下へ戻り、使用人へ指示を出している成田樹を見つける。
「成田さん。今日、私の部屋の掃除担当は誰?」
成田樹は振り返り、作り物みたいな笑みを貼り付ける。
「菅野さん、二階担当の使用人でございますが。何か?」
「私の部屋、誰かが触った」
真理の声は氷みたいに冷たい。
「許可もなく私物を漁るのが、石橋家のやり方?」
近くにいた使用人たちが視線を交わす。だが、誰も口を開かない。
菅野真理は、怒りのあまり笑った。
――本気で、私が黙って飲み込むと思ってるの?
「共有部と廊下には防犯カメラがあるはずよね。今すぐ映像を確認しましょう。私がいない間に、こそこそ盗人みたいな真似をしたのが誰か」
彼女の視線が、ひそひそ笑っていた使用人たちをなぞる。
「ついでに、何かなくなってないかも調べる。もし紛失してたら……当然、弁償よね?」
若い使用人の顔が一瞬で真っ白になり、反射的に成田樹を見る。
成田樹の表情が硬くなる。
「菅野さん、少々大げさでは……」
「成田さん」
真理は冷笑し、ぴたりと視線を合わせた。
「庇う前に、事実をはっきりさせたら? それとも――後ろ暗いから? 調べたら、あなたに繋がるのが困る?」
真理の目は、逃がさない。
そのとき、顔色を失った若い使用人が耐えきれず、震える声で言った。
「ぼ、僕じゃありません……今日の午後……成田陽菜が、菅野さんの部屋に入っていくのを……見ました……」
成田陽菜――?
「余計なこと言うな。陽菜が関係あるわけないだろ」
真理は眉を上げ、顔色が変わった成田樹を見据えた。
「成田さん。その成田陽菜って、あなたとどういう関係?」
成田樹はわずかに顎を上げ、傲慢さを滲ませる。
「陽菜は私の姪です。ですが、あの子は潔白です。菅野さんの部屋に入って物色するなどあり得ません」
「姪、ね」
菅野真理は鼻で笑い、相手にするのをやめて二階へ向かった。
使用人の話では、成田陽菜は廊下の突き当たりの客室にいるはずだ。
ドアの前に立ち、ノックしようと手を上げた、その瞬間。
扉が内側から開いた。
現れたのは、作り込んだ化粧の若い女。甘い笑みを浮かべて――菅野真理を見た途端、笑顔が固まる。次の瞬間には、露骨な敵意が滲んだ。
菅野真理は冷たい目で言い放つ。
「あなたが成田陽菜? 今日の午後、許可なく私の部屋に入って、勝手に漁った?」
成田陽菜は白目を剥く。
「入ったけど? 何か? 変なのが変な物を持ち込んでないか、チェックしてあげただけ。普通でしょ。あんたに私を責める資格ある?」
菅野真理は、その幼稚な開き直りが滑稽でたまらなかった。
執事の姪程度が、ここまで増長するなんて。
「チェック?」
唇の端をひやりと吊り上げ、見下ろす圧を乗せる。
「自分の立場、弁えて。あなたは執事の姪。たとえ成田さんの実の娘だったとしても、この家の姓は石橋よ」
一拍置き、成田陽菜の顔色が歪むのを見てから、淡々と告げた。
「そして私は、石橋結翔が自分で連れてきた婚約者。ここの正真正銘の――未来の奥様よ」
視線が、少し離れた場所で顔を青くしている成田樹にまで届く。
「私の部屋を、部外者が検査する権利なんてない。分かった? 次があったら、出ていって」
言い切って、振り返る。
成田陽菜の引きつった顔など、もう見る価値もない。
成田陽菜はその場に立ち尽くした。使用人たちの視線が、刺すようにまとわりつく。
頬が熱い。屈辱が、喉の奥を焼いた。
菅野真理の背中を睨みつける目は、怨念で赤く染まる。
震える手でポケットを探り、小さな薬瓶を取り出す。
ぎゅっと握り潰すほどに握り込み、爪が瓶に食い込みそうだった。
菅野真理……覚えてなさいよ。
