第2章
鈴木青美は身体をこわばらせ、次の瞬間、彼を突き放した。氷みたいな視線で、真正面から睨みつける。
早村謙介も異変に気づき、上体を起こす。眉間に苛立ちを寄せたまま、吐き捨てるように言った。
「何だ? まだ昼のこと引きずってるのか。言っただろ、あれは妹だって。青美、お前いつからそんなに器が小さくなった」
「器が小さい?」
鈴木青美は、笑いが喉の奥で引っかかった。
「早村謙介。私のこと、よほど馬鹿で騙しやすいって思ってる?」
彼女はドレッサーへ歩き、タブレットを手に取る。指先で数回スワイプしてから、くるりと振り返り、画面を彼へ向けた。
再生されたのは、林原稲美がコピーしたあの映像。
早村謙介の顔色が、じわじわと沈んでいく。
しばらくして、彼はベッドを降りた。寝間着の袖口をゆっくり整える仕草は、妙に優雅で落ち着いていて――嘘を暴かれた気まずさなど、欠片もない。
「鈴木青美。俺たちは最初から、商売のための結婚だ」
ゆっくりと告げる声に、熱がない。
「この四年、お前には早村夫人として必要なものは全部与えた。俺はお前を賢い女だと思ってたんだがな。こういう結婚で、どう振る舞うべきか理解してる、と」
鈴木青美は拳を握りしめる。関節が白くなるほどに。
彼にとって結婚は取引でしかない。
――自分だけが、愛だと信じていた。
「つまり……」鈴木青美は平静を装って尋ねた。「あなたと早村瑞子のことは、見なかったことにしろって?」
早村謙介は小さく頷き、淡々と言う。
「瑞子は俺の私事だ。同じように、お前にも自由はある。早村家の名誉と利益を損なわない限り、俺は干渉しない」
なんて「聞き分けのいい」結婚観だろう。
鈴木青美は笑った。笑みの奥は、ひどく冷え切っている。
「早村謙介……ほんと、勉強になった」
彼女は書斎机へ行き、引き出しから書類を取り出して、机上に置いた。
「なら、円満に終わらせましょう。離婚協議書。私はサイン済み」
早村謙介の視線が紙面に落ち、眉がわずかに寄る。
「ただし、ただでは離婚しない」鈴木青美は一歩も引かず言い切った。「早村グループの株式10%が欲しい。この四年、私がどれだけ早村のために動いたか、あなたが一番わかってる。これは当然の取り分よ」
早村謙介は鼻で笑った。
「金が欲しいなら最初からそう言え。回りくどく尾行だの盗撮だの、くだらない」
彼は離婚協議書を掴むと、鈴木青美の目の前でびりり、と二つに裂いた。
そしてスーツの内ポケットから黒いカードを抜き取り、彼女の前へ投げ捨てる。
「無制限だ。金を受け取って大人しく早村夫人をやってろ。くだらない芝居はやめろ」
言い捨てて背を向け、部屋を出ていく。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、鈴木青美は足から力が抜け、床に崩れ落ちる。
散らばった紙片と、黒いカード。
四年の結婚、四年の努力の対価が、これ。
鈴木青美は顔を両手に埋め、声を殺して泣いた。
……どれほど時間が経ったのか。
鈴木青美は顔を上げ、涙を乱暴に拭う。黒いカードを拾い上げて握りしめると、縁が掌に食い込み、痛かった。
(この結婚、絶対に終わらせる)
翌朝、鈴木青美は林原稲美と街へ出た。
「ほんとにそのカードで払うの?」林原稲美が黒いカードを見て、ためらいがちに聞く。「なんか……嫌じゃない?」
「何が嫌?」鈴木青美は高級ジュエリーショップへ入る。「向こうが勝手に渡したんでしょ。私が遠慮する理由ある?」
店員に微笑みかける。
「いちばん高いの、見せてください」
三十分後、彼女は200万相当のサファイアセットをカードで購入した。
そのままブランド店をはしごし、次から次へと、瞬きひとつせずに買っていく。
「青美、落ち着いて」鈴木青美が靴を試している隙に、林原稲美が小声で止めた。「こんな使い方したら、早村謙介が……」
「どうするの?」鈴木青美はラインストーンのハイヒールを合わせながら言う。「怒る? なら好都合。離婚の口実ができる」
鏡で足元を確認し、淡々と指示する。
「これも。全色それぞれ一足ずつ」
夕方になって、ようやく疲れが差してくる。
二人は高級カフェに入り、周囲には紙袋が山のように積み上がった。
林原稲美が溜息をつく。
「青美、これからどうするの? 早村謙介が離婚にサインしないなら、ずっとこのまま?」
鈴木青美はコーヒーを静かにかき混ぜた。声は驚くほど落ち着いている。
「佐藤弁護士に依頼した。協議が無理なら、訴訟にする」
「本気で裁判?」林原稲美が不安げに眉を寄せる。「早村家の弁護団、手強いよ」
「証拠がある」鈴木青美の目は揺れない。「ホテルの映像、カードの利用明細。こっちに有利」
少し間を置き、声が低くなる。
「それに、早村謙介と早村瑞子の関係を、早村のお婆さんは知らない。大事になれば、早村家は世間体のために早村謙介へ譲歩させるはず」
林原稲美は、目の前の女が少し怖くなるほど冷静だと思った。
かつて温厚で従順で、夫を天にいただいていた鈴木青美の瞳からは、もう光が消えている。
「青美……変わったね」林原稲美は痛々しく言った。
鈴木青美は苦く笑う。
「変わったんじゃない。心が死んだだけ」
いま彼女が望むのは、取り分を取り戻して、早村謙介から離れること。
――同じ頃。早村グループ、社長室。
海外とのオンライン会議を終えたばかりの早村謙介のもとへ、助手の周防誠が入ってきた。表情がどこか微妙だ。
「早村様、ご報告がございます」
「言え」
早村謙介は顔を上げず、書類に目を走らせたまま促す。
「奥さまが……本日午後、市中心部の各百貨店で合計500万以上ご利用です」
早村謙介のペン先が止まった。
「500万?」
「はい」周防誠が明細を机に置く。「上限を設定いたしましょうか。それとも一時停止を」
「要らない」
早村謙介は椅子にもたれ、眉間を揉んだ。
「使わせておけ。使い切れば気が済む」
彼は鈴木青美をわかっている。
贅沢好きな女じゃない。あの散財は、昨日の抗議だ。
女が拗ねて金を使うくらい、よくある話。
仕事が落ち着いたら、少し機嫌を取ればいい。
「……それと、もう一件」周防誠が言いづらそうに続けた。「奥さまから、弁護士を通じて離婚協議書が届いております」
早村謙介の眼差しが冷える。
「弁護士?」
「はい。本日午前、佐藤弁護士が鈴木さんの代理人として離婚案件を受任したと……」
早村謙介は短く沈黙し、手を振った。
「放っておけ」
周防誠は一礼して退出した。
早村謙介は窓の外、暗くなる空を見た。理由のない苛立ちが胸を擦る。
スマホを手に取り、鈴木青美の番号を開く。指が迷い、止まる。
結局、かけなかった。
(数日、冷やせばいい)
