第3章
三日後――早村謙介のもとに内容証明が届いた。
佐藤弁護士が鈴木青美名義で離婚訴訟を提起し、財産分与として早村グループ株式10%を含める、と。
早村謙介はそれを机に叩きつけ、顔を歪めた。
まさか、鈴木青美が本気でここまでやるとは。
すぐに電話をかける。七、八回鳴って、ようやく繋がった。
「鈴木青美、どういうつもりだ」怒りを押し殺した声。
「早村様、文字が読めないんですか」青美は淡々と返す。
「今それを話す気はない」謙介の声が冷えた。「来週の金曜、天城グループのビジネス晩餐会だ。必ず出ろ」
青美がくすりと笑う。
「離婚するのに、どうしてあなたの付き添いで出席しなきゃいけないんですか」
「手続きが終わるまでは早村夫人だ」謙介は言い切った。「それまでの義務を果たせ。天城の案件は重要だ。お前の意地で影響を出させるな」
青美はスマホを握りしめ、指先が白くなる。
どれだけ立派な建前を並べても、結局はそれだ。
「行かなかったら?」
「離婚は、いくらでも引き延ばす」謙介の声に薄い脅しが混じる。「俺には時間がある」
青美は目を閉じた。
早村家の力なら、裁判が三年五年と長引くこともあり得る。
でも彼女は、これ以上一秒だって、この男に奪われたくない。
「わかりました。行きます」静かに答える。「ただし、これが最後です」
――そして金曜。
市中心部の五つ星ホテル。天城グループの晩餐会。
青美は黒のオフショルダードレスをまとっていた。余計な飾りのないエレガンス。アクセサリーは一切なし、口紅も淡い色だけ。全身に冷たい距離が漂う。
会場に入った瞬間、視線が集まった。
早村夫人は常に社交界の中心だ。美貌だけでなく、落ち着いた話術と鋭い商才がある――そう噂されてきた。
「早村謙介の今があるのは、半分は奥さんのおかげ」
そんな囁きすら、いつものこと。
けれど今夜は、誰の目にもわかるほど夫婦の空気が違った。
謙介はいつも通り愛想よく挨拶と応酬をこなし、青美は薄く笑うだけでほとんど口を開かない。二人のやり取りも乏しく、かつての呼吸が消えている。
「青美さん、今日は雰囲気が違うわね」
顔見知りの夫人が近づき、青美を覗き込む。
「具合でも悪いの?」
「大丈夫です」青美は微笑んだ。「昨夜、あまり眠れなくて」
「それは気をつけてね」
相手は意味深に謙介を見た。
「早村様も、仕事ばかりじゃなく奥さまを大切にしないと」
謙介は曖昧に笑い、受け流す。
その時――入口がざわついた。
青美が目を上げる。
白いチュールのドレスを纏った早村瑞子が、妖精みたいに現れた。精巧なメイク、ゆるく巻いた長髪。無邪気な笑顔が一瞬で会場の視線をさらっていく。
「早村家の養女じゃない? なんでここに」
「最近帰国したって。夫人が可愛がってるらしい」
「謙介様と並ぶと……お似合いだな」
「しっ、奥さまがいる」
青美は無表情だった。まるで自分とは無関係だと言わんばかりに。
瑞子は真っすぐ謙介のもとへ行き、当然のように腕に絡みつく。
「謙介お兄ちゃん、ごめんね遅くなっちゃった。渋滞で」
謙介の身体がわずかに強張る。青美を一瞥し、腕を抜こうとしたが、瑞子がぎゅっと抱きついたままだ。
「あなたが青美お姉さん?」瑞子が青美へ向き、甘い笑顔を作る。「謙介お兄ちゃんから、よく聞いてるの」
青美は冷たく眉を上げた。
「へえ。何て言ってました?」
答える前に、謙介が割って入る。
「瑞子は晩餐会が初めてで、見てみたいって言うからな。お前も別に構わないだろ?」
瑞子を守るみたいな口ぶり。
青美はふっと笑った。
「もちろん。二人でゆっくりどうぞ。私はあっちで友人に挨拶してきます」
それだけ言って背を向ける。視界に入れたくない。
ビュッフェコーナーでシャンパンを取った、その時。
耳障りな声が隣から飛んだ。
「やだ、早村夫人じゃない。ひとりで憂さ晴らし?」
振り向くと、木原グループの令嬢・木原雪子がグラスを持ち、嘲るように見ていた。
――昔から謙介に惚れ、あからさまに口説いたことさえある女。
結婚後も、彼女の悪口を散々ばら撒いてきた。
雪子は身を寄せ、声を落とす。
「鈴木青美、あんたもよく耐えるわね。旦那が浮気相手を公の場に連れてきてるのに、その顔」
青美は一口飲み、答えない。
「そんなに傷つかなくていいのよ」雪子はわざとらしく溜息をつく。「長年世話したんだし、元は取れたでしょ。早く手放して、想い合う二人を――」
青美がグラスを置き、微笑んだ。
「木原さん。何年経っても、人のものを欲しがる癖って直したほうがいいですよ」
雪子の顔が引きつる。
「……それと」
青美は言葉を遮り、名刺を一枚取り出した。
「私、今離婚中なんです。将来、木原さんが必要になったらこの佐藤弁護士に。こういう案件に強いです。特に、他人の家庭に割り込む不倫相手の対処が得意で」
名刺をトレーにそっと置く所作は、あくまで優雅だった。
雪子は真っ赤になり、何も言えない。
青美はそれ以上見ずに去った。
謙介と瑞子の横を通り過ぎても、足を止めない。まるでただの他人のように。
晩餐会の途中、息苦しさを覚えてテラスへ出た。
手すりにもたれ、遠くの街灯りを見る。心は不思議なくらい静かだった。
謙介が隣へ来る。しばらく黙ってから言う。
「瑞子が今日来たのは、母の手配だ」
「重要ですか」青美は彼を見る。「来たのに拒まなかった。それがあなたの答えです」
謙介が眉を寄せる。
「青美、そんな言い方しかできないのか」
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「晩餐会が終わったら、家に戻れ。……話そう」
