第4章
「帰る?」
鈴木青美は振り向き、嘲るように彼を見た。
「どっちの家に? あなたと早村瑞子が一緒にいるあの家? それとも、私がひとりで空っぽの部屋を守ってるほう?」
早村謙介は眉間の皺をいっそう深くした。
「瑞子はただの妹だ。そういう言い方は度が過ぎてる。お前が拗ねるのも、金を使うのも、弁護士を立てるのも、俺は黙って見てきた。だがそれは、何度も何度も俺の一線を踏みにじっていい理由にはならない」
鈴木青美は一歩も引かず、真正面から視線をぶつける。
「あなたの一線って、妻は家に置いておいて、外では好き放題すること?」
ふいと顔を背けた。
「もういい。これ以上あなたと言い合う気はないわ。離婚以外、話すことなんて何もない」
早村謙介はしばらく黙って彼女を見つめていたが、不意にふっと笑った。
鈴木青美が訝しげに目を向ける。
その笑みには、露骨な面白がりが混じっていた。
「本気で言ってるのか?」
ゆっくりと手を上げ、指の腹で鈴木青美の頬をなぞる。
「青美。今のお前、自分で気づいてないのか。まるで嫉妬してる奥さんそのものだ」
鈴木青美の身体がぴくりと強張った。退こうとして、背中に冷たい手すりが当たる。もう下がれない。
「嫉妬ですって?」
怒りに、笑いがこみ上げそうになる。
「早村謙介、自意識過剰にもほどがあるんじゃない?」
「違うのか?」
彼の指先が頬から顎へと滑り、そのまま軽く持ち上げる。
「瑞子の話になるたび、お前はこうして熱くなる。何とも思ってないなら、どうしてそこまで離婚にこだわる?」
声は低く、距離はじりじりと詰まってくる。
「青美――認めろ。お前はまだ俺を」
言い終わるより先に、彼は顔を寄せてきた。
その瞬間、鈴木青美の脳裏にいくつもの光景が閃く。
早村瑞子の裾を拭ってやっていた、あの信じられないほど優しい手つき。
寝間着姿の瑞子がベッドの上で甘える声。
そして、この四年間、自分だけが置き去りにされてきた無数の夜。
――気持ち悪い。
胃の底から、激しい吐き気がせり上がった。
鈴木青美はほとんど反射で腕を振り上げ、力任せに早村謙介の頬を打とうとした。
だがその手首は、空中でぴたりと止められる。
早村謙介が素早く手を伸ばし、正確に掴んでいた。
「俺を叩くつもりか」
眼差しから、すっと温度が消える。
「最近、少し甘やかしすぎたみたいだな」
鈴木青美は手を引こうとした。けれど力が違いすぎる。びくともしない。
「放して!」
「帰るぞ」
早村謙介は冷えた声で言い、身を翻した。
「話は家で聞く」
「だから放してって言ってるでしょ――きゃっ!」
言い終える前に、早村謙介は彼女を横抱きにしたかと思うと、次の瞬間には肩へ担ぎ上げていた。そのまま大股で宴会場へ戻っていく。
「早村謙介! 下ろして!」
鈴木青美は驚きと怒りに顔を紅潮させ、拳で何度も彼の背中を叩いた。だが彼はまるで意に介さない。
テラスのガラス扉を押し開ける。
ざわり、と会場の空気が揺れた。
人々の驚いた視線を一身に浴びながら、早村謙介は鈴木青美を肩に担いだまま、宴会場の半分を突っ切って出口へ向かう。
ホテルの外へ出た瞬間、夜風が肌を刺した。鈴木青美は思わずぶるりと震える。
待機していた運転手がぎょっと目を見開き、慌てて後部座席のドアを開けた。
「早村様、これは……」
「出せ。家へ」
短く命じると、早村謙介は鈴木青美を車内へ押し込み、自分も続いて乗り込んだ。
鈴木青美は座るや否や、すぐさま反対側の隅まで身を寄せる。これ以上ないほど距離を取った。
「早村謙介。今日のこと、きっと後悔するわ」
早村謙介は少し乱れたスーツを整えながら、淡々と一瞥をくれた。
「後悔? 俺が一番後悔してるのは、お前を甘やかしすぎたことだ。自分の立場まで忘れさせた」
「へえ、そう」
鈴木青美は喉の奥で笑った。
「危うく忘れるところだったわ。私は必要な時だけ飾って使って、要らなくなれば放っておけばいい置き物だったものね」
早村謙介の眉がわずかに動いた。何か言いかけた、その時だった。
助手席のドアがいきなり開く。
ふわり、と甘い香水の匂いが流れ込んできて、早村瑞子が軽やかな身のこなしで助手席へ乗り込んだ。
くるりと振り返り、後部座席の二人へ愛らしく笑いかける。
「謙介お兄ちゃん、青美お姉さん。私も乗せてもらっていい?」
鈴木青美の身体が、一瞬で強張った。
早村謙介も明らかに意表を突かれた顔になる。
「瑞子? どうしてここに……」
「車が急に動かなくなっちゃって。修理、かなり時間がかかるかもって運転手さんが言うの」
早村瑞子は唇を尖らせ、今にも泣き出しそうな表情を作った。
「こんな時間に一人でタクシーなんて怖いよ。謙介お兄ちゃん、まさか私を置いていかないよね?」
そう言いながら、ごく自然な仕草で手を伸ばし、さっき鈴木青美に引っ張られて歪んだ早村謙介のネクタイを整える。
鈴木青美の目から、最後のぬくもりまで消えた。
真冬の湖面みたいに、冷たく、深い。
早村謙介は無意識に彼女を見て、ほんのわずかに動きを止める。
けれど早村瑞子は、後部座席の重苦しい沈黙などまるで気づかないふりで続けた。
「ねえ、謙介お兄ちゃん。今日、そっちに泊まってもいい?」
甘えた声で小首を傾げる。
「別荘の給湯器が壊れちゃったの。修理は明日になるんだって。私、冷えるの苦手でしょ? お湯がないと眠れないの」
そう言って、彼の腕をふるふると揺する。
「……わかったよ」
早村謙介は困ったように息をついた。
「ほんと、お前には敵わないな」
早村瑞子はぱっと花が咲いたように笑った。
「ありがとう! やっぱり謙介お兄ちゃんって、いちばん私に優しい!」
そして、わざとらしいほど無邪気な顔で振り返る。
「青美、気にしないよね?」
声はあくまで甘い。
「私と謙介お兄ちゃん、ずっと一緒に育ったし、昔はよく一緒に寝てたの。安心して? 邪魔しないから。ちゃんと客間で寝るし」
その瞬間だった。
鈴木青美が、すっと背筋を伸ばす。
数秒、早村瑞子の顔を見つめる。次に、その視線を早村謙介へ移した。
「言いたいことはそれで全部?」
あまりにも平坦な声に、早村謙介の胸がなぜかひやりとした。
次の瞬間、鈴木青美は後部座席のドアを開けて車を降りる。足早に助手席側へ回り込み、勢いよくドアを開けた。
そのまま早村瑞子の腕を掴み、力任せに引きずり下ろす。
「きゃっ!」
早村瑞子が甲高い悲鳴を上げた。ヒールがぐらりと傾き、危うく転びかける。
「鈴木青美! 何をする!」
早村謙介も慌てて車を降りた。
鈴木青美は瑞子を一瞥すらしない。そのまま運転席へ向かい、呆然としたままの運転手に言い放つ。
「降りて」
運転手は硬直したまま、早村謙介を見た。
「降りろって言ってるの」
声が鋭く跳ね上がる。
運転手はびくっと肩を震わせ、慌ててシートベルトを外して車を降りた。
「鈴木青美。いったい何をする気だ」
早村謙介が一歩詰め寄る。声には、抑えきれない怒気が滲んでいた。
鈴木青美はようやく彼を振り返る。
唇の端だけで、氷のように笑った。
「何をする気か、ですって?」
細い指先が、車体をとんと示す。
「早村謙介、忘れたの? これ、私の車なんだけど」
自分が見限った男がどこでどうなろうと、知ったことではない。
けれど、離婚するからといって、どこの誰とも知れない女に頭の上まで踏み込まれる筋合いはない。
鈴木青美は指先をそのまま門の外へ向けた。
「その大事な妹を連れて、私の視界から消えて」
