第5章
早村謙介は一瞬、言葉を失った。鈴木青美の隙のない理屈に、反論の糸口が見つからなかったのだ。
――この車は、確かに鈴木青美のもの。
去年、彼が結婚記念日に贈ったプレゼントで。
その頃はまだ、二人は「夫婦」だった。
鈴木青美は振り返ると、ためらいもなく運転席に滑り込む。次の瞬間、黒のビジネスカーは夜を切り裂くように走り去った。
街の中心部のネオンを抜け、西区の高級マンション街へ。車は迷いなく、林原稲美の住む建物の前で止まった。
「青美?」
ドアを開けた林原稲美は、玄関先に立つ鈴木青美を見て目を丸くする。
「どうしたの? 今夜、晩餐会って言ってなかった?」
言いかけて、稲美の視線が止まった。青美の目元が、赤い。
「……何があったの?」林原稲美の顔色が変わる。すぐに青美の腕を掴み、部屋へ引き入れた。「まさか、早村謙介のあのクズがまた――?」
鈴木青美は首を横に振り、それから小さく頷いて、苦く笑った。
「稲美……しばらく、泊めて。数日だけ」
「泊まりなよ! 好きなだけ!」林原稲美は慌ててソファに座らせ、熱い湯を注いだカップを差し出す。「まず飲んで。ゆっくり話して」
鈴木青美は両手でカップを包み、今夜の出来事を淡々と、必要なぶんだけ口にした。
「……信じらんない!」林原稲美は怒りでソファから跳ね上がる。「あいつ、人前でそんなことして……早村謙介、頭おかしいんじゃないの!?」
「おかしくないよ」鈴木青美は静かに言った。「ただ、やっと仮面を剥いだだけ。あれが本性」
その落ち着きが、林原稲美には余計につらかった。泣き叫んだり、怒鳴ったりしてくれたほうが、まだ救いがあるのに――今の青美は、澱んだ水みたいに静かだった。
「青美……」稲美が言いかける。
「大丈夫」鈴木青美が遮る。薄い笑みを作った。「ほんとに。心が死ぬと、むしろ楽になる」
カップの水を一息に飲み干し、テーブルへ置く。そして窓の外の夜を見た。
「それでね。あの車、売る」
結婚記念日の贈り物。結婚そのものが終わるのに、贈り物だけ残す意味はない。
「見てるだけで、気持ち悪いから」
「売ろう! 絶対そのほうがいい!」林原稲美は即答した。「で、売ったお金で旅行とか――気晴らししようよ」
鈴木青美は首を振った。
「別に、やりたいことがある」
そう言って、視線をリビングの壁に掛かった写真へ向ける。
大学時代の二人。レーシングスーツ姿で、改造車の前に立って肩を組み、眩しいくらいに笑っている。
あれが、一番自由だった。早村家も、早村謙介もない。あるのはスピードと風だけ。
「稲美。村田黒人、覚えてる?」鈴木青美がふいに言った。
林原稲美は瞬く。
「村田黒人? レーサーの? 昔のチームの、隊長だった人?」
鈴木青美は頷いた。
「昨日連絡があってね。明日、市のレーシング協会が大会やるって。出ないかって。……出るって返事した」
「えっ!?」林原稲美は目を見開く。「レース!? 青美、あんた……四年もハンドル握ってないでしょ!」
「四年が何」鈴木青美の瞳に、久しぶりの光が走る。「骨に刻まれたものは、忘れない」
写真のフレームを、指先でそっとなぞった。
結婚前、鈴木青美は界隈で名の知れた女性ドライバーだった。アマの大会で優勝もいくつも取った。
早村謙介に嫁いでからは、「相応しい奥さん」になるために、すべてをしまい込んだ。ヒールを履いて、ドレスを着て、笑顔と我慢だけを覚えた。
いま思えば、失ったのは結婚だけじゃない。
――自分自身だ。
「鈴木青美を取り戻す」彼女は小さく言った。「泣いて、笑って、怒って、争える……あの私を」
林原稲美はその背中を見つめ、目の縁が熱くなった。次の瞬間、後ろから抱きしめる。
「うん。行こう」震える声で言った。「私も行く。明日、付き添う!」
その夜、早村謙介も早村家も、息の詰まるルールも仮面もない。鈴木青美は、久しぶりに深く眠った。
翌朝。
スマホの震えで目が覚める。ぼんやりしたまま手を伸ばすと、画面には早村謙介からのLINE。
消そうとして、指が止まった。結局、開いてしまう。
――眠気が、一瞬で吹き飛んだ。
文字ではなく、写真。
黒いレースの過激なネグリジェ姿の早村瑞子が、濃い色のシーツに横たわっている。髪を散らし、媚びるような目でこちらを見ていた。
背景は、早村家別荘の主寝室。鈴木青美と早村謙介の寝室。
数秒後、写真は取り消された。
だが鈴木青美の指は、もっと速かった。スクリーンショットを撮り終えていた。
ベッドに腰掛けたまま、保存された画像を見つめる。ふっと笑いが漏れた。
(領土宣言、したいわけね)
残念。相手を間違えた。
三日前の自分なら、崩れて泣いたかもしれない。けれど今、彼女の胸に残っているのは氷だけ。
スクショを保存し、クラウドにもバックアップ。すぐに佐藤弁護士へ電話をかけた。
「佐藤弁護士、鈴木青美です。新しい証拠が出ました」
通話を切ると、身支度を整え、あの黒い車で中古車市場へ向かった。
店のオーナーが車体をじっくり確認し、納得のいく値を提示する。
「鈴木さん、状態が最高ですね。ほぼ新車だ」オーナーは笑った。「本当に手放していいんですか? いい車ですよ」
「売ります」
鈴木青美は小切手を受け取り、迷いなく署名した。
あの車を売るのは、過去との最後の糸を断ち切ること。
これから先、早村謙介とは――互いに何もない。
店を出た彼女は商業施設に寄り、着替えを済ませる。軽いスポーツウェアに、高く結んだポニーテール。
そしてタクシーで、郊外のサーキットへ向かった。
東区の外れ。近づくほど、エンジンの咆哮が腹に響く。
ゲートをくぐり、見慣れたコースが視界に入った瞬間、胸が熱くなった。
「青美!」
背後から、懐かしい声。
振り向くと、レーシングスーツ姿の背の高い男が近づいてくる。
「村田」鈴木青美は笑って手を上げた。
村田黒人は彼女を頭から足先まで眺め、目を細める。
「四年ぶりか。変わらないな……いや、前より綺麗になった」
「口、上手くなったね」鈴木青美は肩をすくめる。「昔は毎日、私のこと『鈍い』って怒鳴ってたくせに」
「それとこれとは別だ」村田黒人も笑う。「当時は新人、今はうちの切り札だったろ。……まあ、四年触ってないけどな」
探るような言い方。
鈴木青美は顎を上げた。
「私が足引っ張るって?」
「まさか」村田黒人は両手を上げ、降参のポーズをする。「鈴木お嬢様の腕は知ってる。あの時、急に結婚して引退しなきゃ、今ごろプロで名前が――」
結婚、という単語が落ちた瞬間、空気がほんの少しだけ硬くなる。
「昔話はいい」鈴木青美は手を振った。「今日の流れは?」
「市レーシング協会の親善レース。懐かしい連中も来てる」村田黒人が説明する。「申し込みも済ませた。二人リレーで、俺とお前。どうだ、いけるか?」
「当然」鈴木青美は眉を上げた。「心配なのは、あなたが私のスピードについてこれるかどうか」
村田黒人が声を立てて笑い、顎で示した。
「着替えよう。まず感覚を戻す」
二人で肩を並べ、階段を下りる。
そのとき――鈴木青美の下腹部に、鋭い痛みが走った。
「っ……」
思わず息が詰まり、腹を押さえる。
「大丈夫か?」村田黒人が反射的に支え、距離が一気に近づいた。
「平気」鈴木青美は手を振り、顔を上げ――
その瞬間。
見たくないはずの、見慣れた顔が視界に飛び込んできた。
