第2章
高沢はパトカーに滑り込み、勢いよくドアを閉めた。骨まで凍みる寒風とゴミ捨て場の腐臭が、その一枚の鉄板で隔絶される。
私は閉ざされた窓をすり抜け、助手席に腰を下ろした。
「絵理、お母さんの話を聞いて。落ち着くのよ」
受話器に向かって語りかける高沢の声は、私には一度たりとも向けられたことのない、腫れ物に触るような優しさと慎重さに満ちていた。
「先生はなんて?」
スピーカーから、絵理の怒号と泣きじゃくる声が響く。
『あいつ、最低のクソアマよ! お母さん、すぐに学校に来てなんとかして! あのデブ教師、私がいじめっ子だなんて言いがかりつけて、停学にするって脅すのよ! 早くなんとかしてよ!』
「大丈夫よ、絵理」ハンドルを握る高沢の指の関節は白く変色していたが、その瞳は慈愛と心痛に揺れていた。
「停学なんて絶対にさせない。校長と話をつけるわ。あなたが世界で一番優しくて、無実だってことは皆わかってるもの」
『お父さんには絶対に言わないで!』絵理が畳みかける。
『もしバレてお小遣い減らされたら、あんたのこと一生恨んでやるから!』
「言わないわ、約束する」高沢は必死になだめる。
「今、現場検証中なの。でも、できるだけ急いで……」
『早くしてよ!』
突然、絵理が言葉を遮った。その声色は毒々しく、鋭利な刃物のように変わる。
『あの女、学校中で私の悪口言いふらしてるのよ? なのにあんたはグズグズ言い訳ばっかり! どうせ私のことなんてどうでもいいんでしょ。所詮はお父さんのご機嫌取りたいだけの女なんだから!』
車内の空気が凍りついた。
私は高沢を見つめた。もし私が同じ口を利こうものなら、即座に頬が腫れ上がるほどの平手打ちと、一ヶ月の外出禁止令が下っていただろう。だが今、高沢の顔に浮かんでいるのは、傷ついた表情と、さらに深まった卑屈さだけだった。
「そんな言い方しないで、絵理……お母さんを傷つけるのは悪いことよ」高沢はそれでもなお、彼女の機嫌を取ろうとしていた。
「こっちの仕事はすぐに片付けて向かうから。ね、いいでしょ? 泣かないで。あなたの大好きな店のマカロンを買っていくから」
電話はプツリと切れた。
スマホを握りしめたまましばらく硬直していた高沢は、長く重い溜息をつき、疲労に滲む眉間を揉んだ。
彼女がドアを押し開け、猛吹雪の路地裏へと戻った瞬間、顔に張り付いていた卑屈さは霧散した。代わりに装着されたのは、冷徹な鉄仮面の如き表情だ。
証拠品を探していた数名の警官たちが彼女を見やり、何か言いたげな視線を送る。
「何見てんのよ? 手ェ動かしなさい!」高沢が怒鳴りつけた。
鈴木が歩み寄り、買ってきたばかりの温かい缶コーヒーを手渡す。その眼差しは複雑だ。
「高沢、全部聞こえてたぞ。あの継子に……少し甘すぎるんじゃないか?」
傍らにいた若い女性警官も、堪えきれずに小声で呟く。
「そうですよ、ボス。先週なんて、美弥ちゃんが傘を忘れて床を濡らしたってだけで、署の皆の前で十分間も説教したじゃないですか。それなのに、今のあの子の口調……」
「あれとは違う」高沢はコーヒーを受け取り、冷ややかな目で部下を一瞥した。
「絵理は幼くして母親を亡くしているの。あの子の心は繊細だから、より多くの愛と寛容さが必要なのよ。それに彼女は優秀な私立高の特待生。多少の癇癪は仕方ないわ」
「じゃあ、美弥はどうなんだ?」鈴木はあからさまな不公平さに眉をひそめる。
「美弥だってお前の娘だろ。それどころか……お前と同じ血が流れているのはあの子だけじゃないか」
「実の娘だからこそ、厳しくしつけなきゃならないのよ」高沢の表情がいっそう険しくなる。まるで汚物について語るかのようだ。
「あの貧乏臭い根性を叩き直さないと、あの強欲な父親みたいに社会の寄生虫になるだけだわ。私が厳しくするのは、あの子をまともな人間にするためよ」
鈴木は溜息をつき、手上げだとばかりに首を振った。
高沢の背後に漂いながらその言葉を聞いていた私は、魂の奥底から苦い寒気が込み上げてくるのを感じた。
高沢が再婚してからの日々は、地獄のようだった。
あれは二年前のクリスマスのことだ。
義父の正郎は絵理に新品の MacBook を買い与え、高沢は私に絵理のお下がりのダウンジャケットを寄越した。「資源の節約」という美名のもとに。
食卓で、私にも何か新しいプレゼントはないのかとおずおず尋ねた時、高沢は家族全員の前で箸を叩きつけた。
「あんたって子は、どうしてそうやって搾取することばかり考えるの? この家にタダで住んで、光熱費も払わず、その上プレゼント? いつからそんな物質主義者になったわけ?」
私は物質主義なんかじゃない、お母さん。
ただ、私を見てほしかっただけなのに。
「そういや美弥のことだが」鈴木が空気を変えようと話題を転じた。
「来週は俺の誕生日だろ? うちでバーベキューやるからさ。あの子もしばらく見てないし、連れてこいよ。たまには母娘水入らずで話して、関係修復したらどうだ」
高沢は、ゴミ箱から検視官によって運び出される肉片を見つめ、うんざりしたような嫌悪感を露わにした。
「知ったことじゃないわ」彼女は冷たく吐き捨て、その白い息は冬の夜空へと消えていく。
「来たけりゃ来ればいい。正直なところ、外でのたれ死んで二度と帰ってこなければいいと思ってるわ。そうすれば、あの子のくだらないトラブルに煩わされずに済むもの。あの辛気臭い顔を見るたびに頭痛がするのよ」
『私が目の前で死んでいても、お母さんは私を厄介者だと思うの?』
彼女を見つめ、泣きたかった。けれど、魂には流すべき涙がない。
その時、証拠品袋を手にした鑑識官が歩み寄ってきた。
「高沢刑事、遺体の左手からこれが見つかりました。死後硬直で指が固まっていて、回収するのに骨が折れましたよ」
高沢は気のない様子でそれを一瞥した。
透明な証拠品袋の中には、血に染まり、引きちぎられた銀色のネックレスが入っていた。
私が最期まで、命に代えても守り抜こうとしたものだ。
鈴木が顔を近づけ、目を丸くした。
「待てよ……これ、ティファニーの定番モデルじゃないか? 高沢、先週美弥が署に来た時、俺に相談してたんだぞ。写真を見せて、『これをお母さんの誕生日に買いたい』って。まさにこのデザインだった」
高沢の視線がネックレスに釘付けになる。
その一瞬、私は息を呑んだ。
「よく似てるな、おい」鈴木が食い下がる。
高沢は眉をひそめ、すぐに鼻で笑った。
「まさか。いい加減にしてよ、鈴木。そのネックレス、定価で五万円はするのよ? 美弥? あの子、スマホ代すら私に払わせてるのよ。もし本当にあの子が買ったんだとしたら、どうせ汚い金でしょ。それに私の誕生日は来月よ。あんな薄情な子が覚えてるわけないじゃない」
彼女は背を向け、私の鮮血に染まったネックレスから目を逸らした。まるで道端のゴミを見るかのように。
「ただの偶然よ。今の若い子はこういうの見せびらかすのが好きなの。さっさと証拠品として処理して」
自分の魂が砕け散っていくのを感じた。身体をバラバラにされた時よりも、ずっと痛い。
鈴木が何か言いかけたその時、高沢の私用携帯が再び鳴り響いた。
学校からだ。
高沢は発信者を確認することもなく素早く応答した。声には焦りがある。
「もしもし? 高沢美紀です」
『高沢さんですか、夜分に申し訳ありません。実は絵理さんが学校で他の生徒と取っ組み合いの喧嘩になりまして……相手の親御さんが興奮されており……』
「なんですって!?」高沢の声が裏返り、怒りに震える。
「相手の親を帰さないで! すぐに行くわ! 娘の髪の毛一本でも傷ついていたら、絶対に許さないから!」
彼女は電話を切ると、鈴木に向かって叫んだ。
「ここは任せたわ、鈴木。学校に行かないと」
「おい、待てよ高沢!」鈴木は信じられないといった様子で背後の遺体を指差した。
「ここは殺人現場だぞ! まだホトケの身元も割れてない、犯人が近くにいるかもしれないんだぞ――」
「絵理が私を必要としてるの!」
高沢は悪びれもせず言葉を遮り、トレンチコートのボタンを留めながら大股でパトカーへ向かう。
「それはただの身元不明の死体よ。もう死んでるんだから逃げやしないわ。でも、私の娘は今まさに学校で酷い目に遭ってるのよ。どっちが重要か、そんなことも分からないの!?」
エンジンの咆哮が轟く。
黒のダッジ・チャージャーが急発進で雪を巻き上げ、テールランプの残像を残して走り去った。
彼女は私を捨てた。
生前、何度もそうされたように。絵理のかすり傷一つのために、彼女は躊躇なく私を切り捨てる。
私は誰もいない路地に立ち尽くし、街の灯りの中へ消えていく車を見送った。
雪脚が強まり、鈴木刑事のやるせない悲哀に満ちた顔に降り注ぐ。そして、透明な私の身体をもすり抜けていく。
私はその車が消えた方向に向かって、風にしか聞こえない声で、そっと呟いた。
「お母さん、少しだけでいいから……ほんの少しだけでいいから、私を愛してほしかった」
けれど私は知っている。それはもう永遠に叶わない、死人の繰り言だということを。
世界の誰ひとりとして、私を愛してはいないのだから。
