第1章

雪乃視点

「サインしろ、雪乃。今すぐだ」

 九条凌也の声は、氷のように冷酷だった。

 彼は財産放棄の同意書と離婚届を、バンッとテーブルに叩きつけた。

 この街でトップの資産家であり、私の法的な夫でもある彼の権力は絶対だった。

 私はその分厚い書類の束を見つめた。太字の文字が滲んで重なって見える。

「結衣の免疫不全が悪化している」と彼は言った。その目には、吐き気を催すほどの苛立ちと露骨な嫌悪感が混じっていた。

「海外に、実験段階の幹細胞および骨髄抽出の治療法がある」彼は冷ややかに続けた。

「それが彼女の唯一の希望だ」

 私は彼を見上げた。

「それは未承認で、闇医者が行う極めて危険な手術よ」

「そして、お前の遺伝子は完全に一致しているんだ」父の純一が怒鳴り、凌也の横に進み出た。

 母の沙百合は、純粋な憎悪を込めて私を睨みつけた。

「あの子のために、あなたが実験台になるのよ!」

 彼らは私を追い詰めていた。私の夫と両親が、残酷にも結託して。

 妹を救うため、私にモルモットになれと強要しているのだ。

 結衣。澤田家の、二十二歳の聖女。

 彼女は儚く無垢な被害者を、完璧に演じきっていた。

 しかし、私は真実を知っている。結衣は冷酷な偽善者だ。

 彼女は病気などではない。重度の免疫不全など嘘だ。両親の罪悪感を武器にして、私のすべてを奪い取る寄生虫なのだ。

 私の夫でさえも。

「あなたにはその義務があるのよ!」母が金切り声を上げ、広大で息苦しい豪邸にその声が響き渡った。

「お前があの子を失ったのは、あの子が六歳の時だ!」父が怒鳴り、震える指で私を糾弾するように指差した。

「お前が手を離したから、あの子は誘拐されたんだ!」父は咆哮した。

「お前があの子の人生をめちゃくちゃにしたのに、自分の命を懸けて救おうともしないのか?」

 私は身をすくませた。いつもの嘘だ。

 あの日、勝手に走り出したのは彼女の方だった。私は止まるように懇願したのに。

 しかし、彼らは決して私を信じなかった。彼らにとって、私はすべての元凶なのだ。

 彼女が離れていた年月を償うために、血を流すべきなのは私の方なのだと。

「もしやらないと言うのなら、雪乃、お前とは縁を切る」父は怒りで顔を真っ赤にして脅した。

「勘当だ」

 凌也が一歩近づいた。彼の長身が、暗く息苦しい影を私に落とす。

「そして、九条家からの資金援助はすべて引き揚げる」彼は冷酷に言い放った。

「澤田家は夜明けまでに破産するだろうな」

 私は、長年愛してきたその男を見つめた。

 彼はその莫大な財力を使って私を潰そうとしている。すべては、私の妹を守るために。

 彼は自分が救世主だと思っている。自分が私の死刑執行人として振る舞っていることなど、微塵も気づいていないのだ。

「ここから逃げるなら、俺たちの結婚も終わりだ」凌也は、傷口に塩を塗るように付け加えた。

 突然、骨の奥深くでドリルでえぐられるような激痛が爆発した。

 何百万ものギザギザのガラスの破片が、骨髄の中で擦れ合っているかのようだ。私は息を呑んだ。

 あまりの痛みに、一瞬目の前が真っ暗になった。

 胸を引き裂くような激しい咳が出そうになり、私は服従を装って素早くうつむいた。

 テーブルからティッシュを掴み取り、口元に強く押し当てる。

 生温かく、ドロリとした液体が紙に染み込んだ。

 少しだけ離して見てみる。

 黒い血。

 私は震える手でティッシュを丸め、誰かに見られる前に素早く袖の中に隠した。

 彼らに知られるわけにはいかない。知ったところで、気にも留めないだろうが。

 三日前、私は冷たく殺風景な診察室で、死の宣告を受けた。

 末期の骨肉腫。

 私の造血幹細胞は完全に、そして不可逆的に機能不全に陥っていた。

 医師の言葉が、今も葬送の鐘のように耳鳴りとなって響いている。『余命は一ヶ月もありません』

 私の命は、すでにカウントダウンに入っていたのだ。

 私は再び凌也を見上げた。

「私がその手術台で死ぬかもしれないことなんて、気にも留めないの?」私は、消え入りそうな声で彼に尋ねた。

 凌也は鼻で笑い、その端正な顔を軽蔑に歪めた。

「死にかけているのは結衣だ。いい加減、その呆れるほどの自己中心的な考えを捨てろ」

 私は両親に目を向けた。彼らは、まるでゴミでも見るかのような目で私を見ている。

 死にゆく女にプライドなど必要ない。

 死にゆく女に、自分を軽蔑する夫など、なおさら必要ない。

「わかったわ」私は静かに言った。

 凌也は瞬きをした。私の突然の承諾に不意を突かれ、固まっている。

「やるわ。結衣のために、その手術の実験台になる」

 私は手を伸ばし、ずっしりとした金の万年筆を手に取った。

 致命的な同意書の上にペンを走らせる私の手は、微塵も震えていなかった。

 これをやれば、私はあの闇医者の手術から二度と目を覚ますことはないだろう。

 いいわ。この悪夢を終わらせよう。

 私は躊躇しなかった。鋭く、迷いのない筆致で自分の名前をサインした。

 ペンを離した瞬間、部屋に立ち込めていた重苦しい緊張感が一瞬にして砕け散った。

 両親は揃って、心底安堵したような深いため息をついた。

「ああ、よかった」母は息をつき、嘘泣きの涙を拭った。

「ようやく正しい行いをしてくれたな」父が言った。

 その険しい顔は瞬時に、偽りの父親らしい温かさの仮面へと変わった。

「あなたを不当に扱うようなことはしないわ、雪乃」母が約束した。

 彼女は近づき、その目は吐き気がするほどの偽りの誠実さでギラギラと光っていた。

「手術が終わったら、家の財産を分けましょう」彼女は誓った。

「半分は結衣に、半分はあなたに。損はさせないわ」

 私は、安堵と喜びに満ちた彼らの顔を見つめた。

 私を屠殺場へ送ろうとしているというのに、彼らは自分たちの寛大さを祝っているのだ。

 私はゆっくりと首を横に振った。

 喉の奥から込み上げてくる強烈な鉄の味を、無理やり飲み込む。

 息が詰まるほどの苦しい悲しみを、ズタズタに引き裂かれた心の一番深い場所へと沈めた。

 私はサインした同意書をテーブル越しに押しやり、凌也の手に真っ直ぐに渡した。

「全部、結衣にあげて」私は不気味なほど穏やかな声で言った。

「私にはもう、必要ないから」

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