第3章

 妊娠検査薬に浮かんだ二本の線を見つめたまま、私の頭は完全に思考を停止していた。

 洗面所の鏡に映る顔は、まるで紙のように青ざめている。

 昨夜、純一がつけていたオーデコロンの香りがまだ部屋に漂っており、私は再び吐き気を催した。

 もしこれが三日前だったなら、手放しで喜んでいたことだろう。

 だが今は、ただ息が詰まるだけだった。

 万が一の思い違いをなくすため、私は目立たない服装に着替え、確認のために病院へと足を運んだ。

「おめでとうございます。妊娠六週目ですね。胎児の心拍も確認できます」

 医師はそう言って、エコー写真の報告書を私に差し出した。

 診察室を出ると、両脚からすっかり力が抜け落ちていた。壁にすがりつき、一歩、また一歩と這うようにして病院のテラスへと向かう。

 少し頭を冷やし、考えを整理する必要があった。

 だが、そこで大きく深呼吸をした途端、曲がり角の先から聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「ねえ、あとどれくらい待てばいいの?」

 怜奈だ。

 私はとっさに柱の陰へと身を潜めた。

「心配しなくていい」

 今まで聞いたこともないほど、純一の声は優しさに満ちていた。

「彼女のピルは、もう排卵誘発剤にすり替えてある。順調にいけば、すぐにでも妊娠するはずだ」

「でも、あの女の血液の質、落ちてきているじゃない。先週の私の検査結果だって……」

 怜奈の声には不満がにじんでいた。

「だからこそ、新しい血液の供給源が必要なんだ」

 純一は彼女の言葉を遮った。

「Rhマイナスの胎児――その臍帯血と新生児幹細胞こそが、君の退行性疾患を治す完璧な再生医療の材料になる。臍帯血と骨髄さえ採取できれば、その子が生き残ろうが死のうが関係ない。もう咲良に存在価値はなくなるんだ」

 私は両手で口をきつく塞いだ。

 ぼろぼろとこぼれ落ちる涙で視界が滲む。それでも、決して声を出すわけにはいかなかった。

 彼がかつて口にした「俺たちの子供が欲しい」という言葉。それは結局、怜奈のためにより若く、より純粋な「薬」を作り出したかっただけなのだ。

「あなたって、本当に最高ね」

 甲高く、どこか狂気を帯びた怜奈の笑い声が響く。

「純一、あなたって本当に最高」

 二人の足音が次第に遠ざかっていく。

 私はその場にへたり込み、自分のお腹をしっかりと抱きしめた。

 ねえ赤ちゃん、ママは絶対に、あなたを次の「血袋」にはさせないからね。

 家に戻った私は、すぐさま荷造りを始めた。

 結婚して五年になるというのに、私の私物はひどく少ない。

 それ以外のものはすべて純一が買い与えたものだ。洗練されたワンピース、きらびやかな宝石、高級な化粧品――そのどれもが私を縛り付ける鎖であり、囚われの身であることを突きつけてくる。

 あんなもの、もう欠片も欲しくはない。

 そして、私はテーブルの上に二つの書類を並べた。

 すでに署名済みの離婚届と、偽造した流産証明書。

 薬指から結婚指輪を外し、その書類の上へと置く。

 五年間の結婚生活が、ついに終わりを告げたのだ。

 街角には、高橋博己が乗る黒いセダンが停まっていた。

「出して」

 私は一度も振り返ることなく、車のドアを開けて乗り込んだ。

 ようやく、私はこの地獄から逃げ切ったのだ。

 夜の十一時。

 純一は上機嫌で玄関のドアを開けた。

 今日の怜奈の検査結果はすこぶる良好だった。あとは咲良が早く妊娠してくれさえすれば、すべては彼の計画通りに進む。

「咲良?」

 声をかけてみるが、返事はない。

 リビングに足を踏み入れた彼は、テーブルの上の物に目を留めた。

 次の瞬間、彼は言葉を失い、完全に硬直した。

 床に崩れ落ち、その流産証明書を力任せに握りしめる。

「あ、あああぁぁぁっ――!」

 喉の奥から、獣のような咆哮が漏れ出た。

 次の瞬間、鉄が錆びたような甘い匂いが込み上げてくる。

 彼は堪えきれず、鮮血を勢いよく吐き出した。

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