第2章 これが最後

杏子視点

震える手で彼の上着を握りしめると、その赤い口紅の跡が目に焼き付いて離れなかった。

「山田愛美」。私の声はかろうじて囁きになったが、一言一言ははっきりしていた。「その愛美って……誰なの?」

隆志の表情ががらりと変わった。まるでスイッチが切り替わったかのように。彼の目は輝き、背筋が伸び、とたんに身振り手振りが大きくなる。

「愛美?ああ、山田愛美のことか。杏子、彼女はすごいんだよ。アカデミー賞にもノミネートされたんだ、知ってるだろ?『真夜中の雨』での彼女の演技は、もう……圧巻だった」

私は上着をさらに強く握りしめ、襟についた赤い染みを指でなぞった。彼は輝いていた。彼女の話をするその顔は、憎らしいほど生き生きとしていた。

「それに彼女の新作、あれは絶対ヒットする。人を惹きつけてやまない、むき出しの才能みたいなものがあるんだ。わかるだろ?撮影現場に彼女がいると、誰もが手を止めて見入ってしまう。彼女には何か……人を魅了する何か特別な輝きがあるんだ」

私は、夫が別の女の話に我を忘れているのをただ見ていた。私の目の前で。私たちの結婚記念日に。彼女の口紅がついた上着をこの手に握りしめているというのに。彼の言葉一つ一つが、心に刺さった棘がさらに深く食い込むようだった。

「パーティー、一緒に帰ったって聞いたわ」

隆志の口がぴたりと閉ざされた。一瞬、表情が凍りついたが、すぐに私には見慣れたあの作り笑いを浮かべた。

「一緒に?ああ、あれか。杏子、そういうのじゃないんだ。たまたま出るタイミングが一緒になっただけだよ。駐車場には他に十五人くらいいたし。中村大輔もいたし、TBSの沙羅さんとか、あの新しいやつとか……」

彼は後頭部に手をやった。私にはわかる。彼が緊張しているとき、嘘をついているときにだけする癖だ。

「こういう場がどういうものか、君も知ってるだろ。みんな人脈作りに必死で、おしゃべりしてる。愛美がプロデューサーと月見亭で食事するって言うから、これは人脈を広げるいい機会だと思ってね」

彼が並べ立てる詳細、口にする名前、吐き出す言葉のすべてが、状況を悪化させるだけだった。彼が説明すればするほど、私の疑いがすべて真実だという確信が深まっていった。

彼は私から上着を取り上げ、私の肩を優しく押した。「ベイビー、熱があるじゃないか。肺炎になる前に熱いシャワーを浴びてきなよ。お茶、淹れておくから」

心の中では悲鳴を上げながらも、私は彼に導かれるまま、自動操縦のように階段へと向かった。

午前二時。隣で隆志は深い寝息を立てていた。私は天井を見つめていた。熱のせいで、すべてが悪夢のように感じられる。思考がぐるぐると空回りしていた。もし彼が本当のことを言っていたら?もしこれがただの私の思い過ごしだったら?でも、あの口紅。あの香水の匂い。彼女の話をするときの、あの輝くような表情。もしもう私を愛していないのなら、なぜそう言ってくれないのだろう?私はただのアシスタントだったのだから、彼にとって離婚は簡単なはずだ。なぜ私の顔を見て嘘をつき続けるの?疑問が私を蝕み続け、疲労困憊の末に意識が途切れたのは、午前六時ごろだった。

目が覚めると、ベッドはもぬけの殻で、朝日が差し込んでいた。枕にはまだ隆志の温もりが残っていたが、彼の姿はなかった。頭がハンマーで殴られているように痛い。ふらふらとキッチンへ行き、バファリンを二錠、水なしで飲み込み、トーストを無理やり胃に押し込んだ。何もかもが水中で動いているような感覚だった。

携帯が震えた。

隆志:「家に幸運の腕時計を忘れた。ナイトスタンドの上にあるロレックスだ。撮影現場まで持ってきてくれないか?第七スタジオだ。頼むよ、杏子。❤️」

幸運の腕時計?重い体を引きずって寝室に戻った。腕時計はそこにあった。ナイトスタンドの上で輝いている。でも、隆志がそれをそんなふうに呼んだことは一度もなかった。いつも『投資物件』だと言っていたのに。何かがおかしい。でも、病気と精神的な疲弊で、それが何なのかを突き止める気力はなかった。

パラマウントまでの道のりが、果てしなく感じられた。赤信号が永遠に続くように思えた。熱のせいで、視界のすべてが揺らめき、輪郭がぼやけていた。

第七スタジオは活気に満ち溢れていた。ガラスの壁越しに、中の撮影セットが見える。そして、そこに隆志がいた。山田愛美と体が触れ合いそうなほど近くに立って。彼女は彼に腕を絡ませ、耳元で何かを囁きながらその腕を撫でていた。

まるで恋人同士のように親密で、本当の夫婦のように見えた。それに比べて私は?場違いな部外者。

愛美は隆志の耳にさらに顔を寄せ、唇が彼の肌に触れるか触れないかの距離になった。彼がガラスの向こう、私の方に顔を向けた瞬間、その表情は親密なものから、ほんのコンマ数秒でパニックへと変わった。彼は素早く彼女から身を引いた。

「杏子?」私に追いついた隆志の声は鋭かった。「一体ここで何してるんだ?家で寝てるべきだろ!」

彼がそんな口調で話すのは初めてだった。心配や気遣いではなく、怒りと非難が込められていた。

「それ、心配してくれてるの?それとも、私が来たことに腹を立ててるの?」

隆志は瞬きをした。まるで自分の声がどう聞こえたかに今気づいたかのように。「お、俺は……もちろん心配してるさ。君は……」

「やめて。腕時計、持ってきてって頼んだの、あなたでしょ?」

「何?俺が頼んだなんて……そんなメッセージは送って……」

彼の声は途切れた。私が彼の向こうにいる愛美に視線を向けたからだ。彼女は満足げな笑みを浮かべてそこに立ち、手に携帯を持っていた。隆志の携帯を。

隆志は私の視線を追い、自分のデバイスを持つ愛美を見た。彼の顔を、一度に五つほどの異なる感情が駆け巡った。

「愛美、あれは……あれはただの冗談だったんだよな?からかってただけだろ?」

愛美は笑った。その軽やかで音楽のような声が、私の肌を粟立たせる。「あら、隆志ったら。杏子さんが現場に来てくれたら楽しいと思っただけよ。そんなに堅くならないで!」

「そうだ、せっかく杏子さんが来てくれたんだし……」愛美の声は、甘く無邪気なものに変わった。「私、今日あまり体調が良くないの。もしかして、ワイヤーアクションのシーン、代わりにやってもらえないかしら?」

「愛美、その必要はない。杏子は病気なんだ」

「でも、もうここに来てるじゃない!それに、映像専門学校でスタントの経験があったんでしょ?お願い、隆志。たったワンシーンだけだから」

愛美の小芝居を見ながら、ためらう隆志を見ていると、突然すべてが腑に落ちた。私の夫は、この女の言いなりになっている。

「私がやるわ」

「杏子、だめだ。君がやる必要は……」

「私がやると言ったの」私は隆志の目をまっすぐ見つめた。「これが、あなたのためにする最後の仕事になる。この後、あなたに話があるから」

隆志の顔が真っ青になった。彼はその口調を知っていた。それが何を意味するかも。

「後悔するようなことは言うな。この後、医者に診てもらいに行こう、な?君はまともに考えられてない」

二十分後、私はワイヤーハーネスに体を固定されていた。熱とめまいはあったが、私の動きはプロフェッショナルだった。映像専門学校も全くの無駄ではなかったようだ。

「本当に大丈夫か?スタントダブルを待っても……」

「平気よ。さっさと終わらせましょう」

クルーが私を空中へと吊り上げたその時、隆志が心配を顔中に浮かべて、思わず一歩前に出た。「気をつけて……」

彼は手を伸ばし、何かを助けようか調整しようとしたが、その動きがワイヤーシステムのバランスを崩した。私は大きく揺さぶられ、制御を失い、背景の壁に激しく叩きつけられた後、コンクリートの床に落ちた。

「カット!カット!誰かメディックを呼べ!」

床に横たわり、世界がぐるぐると回っていた。頭の中で耳鳴りが響き、ただ目を閉じて眠ってしまいたいと懇願していた。

隆志が駆け寄り、ひざまずいて私の安否を確かめようとした。だがその時、彼の背後で悲鳴が空気を切り裂いた。

「ああ、頭が……頭がくらくらする」

隆志は動きを止めた。彼は床に横たわる私を見下ろし、それから大げさにふらついている愛美を振り返った。

その瞬間、隆志は唇を噛みしめ、立ち上がり、愛美の方へ歩いて行った。

「愛美!大丈夫か?ほら、ここに座って……」

これが結末だった。法廷でも、怒鳴り合いの末でもなく、まさにここで。私が彼を最も必要としていた時に、彼は彼女を選んだ。

愛美を腕に抱えて消えていく隆志の背中を見つめるうち、暗闇が私を包み込んでいった。

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