第1章

 電話の向こうで、二秒ほどの沈黙が落ちた。

 父は短く「わかった」とだけ告げ、通話を切った。

 書斎の中では、まだ会話が続いていた。

「手は出してないだと?」友人が声を荒らげる。

「じゃあ子供はどうなる? 彼女は妊娠してるんだぞ! 誘拐犯はお前が雇ったとはいえ、手違いがあったのを知らないわけじゃないだろう? もしものことが……」

「もしもなどない」濱野和久は冷徹にそれを遮った。

「奴らには警告しておいたんだ。脅すのはいいが、彼女には指一本触れるなとな」

 彼は一拍置く。

「子供については……彼女に罪悪感を抱かせるのにちょうどいい。姉のくせに、いつもリリを見下して陰口を叩いていたんだ。ちょっとしたお仕置き代わりさ」

 爪が掌に食い込む。

 彼にとっての『お仕置き』とは、私が浴槽で手首を切り、睡眠薬を瓶ごと飲み干し、ベランダの縁に立った、あの瞬間の数々のことだったのか。

「リリとの結婚式が済んだら、あいつを海外の療養施設に送る手筈だ」彼は淡々と続ける。

「向こうで子供を産ませて、精神状態が落ち着いた頃に教えてやるつもりだ。実は俺の子だったとな。そう時間はかからない。その時は、たっぷりと埋め合わせをしてやるよ」

 彼は薄く笑った。

「結局のところ、俺が愛しているのはあいつだけなんだから」

 私が深い愛情だと信じていたものは、彼が自分に酔うための脚本に過ぎなかった。そして私は、その舞台の上で意のままに操られる小道具でしかなかったのだ。

「だが、彼女はもう三回も自殺未遂をしてるんだぞ!」友人の声には戦慄が滲んでいる。

「毎回誰かが助けたとはいえ、もし一度でも手遅れになっていたら……」

「あれは演技だ」濱野和久は冷たく言い放つ。

「俺の気を引きたいだけさ。でなきゃ、毎回あんな都合よく発見されて助かるはずがないだろう?」

 私は口元を押さえ、必死に声を殺した。

 いつだって、私は本気で死のうとしていた。どの選択も、絶望の淵で下した決断だったのに。

 それを彼は、演技だと言うのか。

 友人は長い沈黙の後、深く溜息を吐いた。

「お前は狂ってる。たかが恩義のために、そこまでするか。彼女が真実を知って、永遠にお前の元を去るのが怖くないのか? あの性格だ、きっとそうするぞ」

「知られるはずがない」濱野和久は自信たっぷりに言った。

「あいつは俺を愛しているんだ。俺が少し機嫌を取ってやれば、彼女の『過ち』を許した俺の度量の広さに感謝するだけさ」

 私は目を閉じ、踵を返した。

 彼はリリの結婚式という願いのためだけに、私の全てを平気で踏みにじった。

 なのに、たった一言の真実さえ私には告げてくれない。

 来る日も来る日も、彼の傍にいることが救いであり、彼の優しさこそが愛だと信じていた。

 それも全て、彼が自作自演した茶番劇だったのだ。

 私はただ、その劇中で弄ばれるだけの道具。

 体も、心も壊れた。

 自分自身すら嫌悪する廃人と化し、犯されたという幻覚に怯える日々。

 腹の中には、恥辱の証だと思い込んでいた命を宿して。

 その全てが、単にリリへ政略結婚の枠を譲るためだったなんて。

 あの『病弱で可哀想な妹』のために、彼は躊躇なく私を地獄へ突き落とした。悪夢にうなされ、罪悪感で自傷し、絶望の中で何度も死を乞う私を、彼はただ眺めていたのだ。

 全身の震えが止まらない。胸の奥から激しい痛みが突き上げてくる。

 私は胸を押さえ、その場にうずくまった。涙が止めどなく溢れる。

 もう感覚なんて麻痺してしまったと思っていた。あれだけの事を経験して、もう涙なんて枯れ果てたと思っていた。

 けれど今、心とはこれほどまでに痛むものなのだと、思い知らされていた。

 しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。

 濱野和久が部屋に飛び込んでくる。眉をきつく寄せている。

「どうしたんだ?」

 彼はしゃがみ込み、私を支えようとする。私は顔を背けた。触れられたくなかった。

 それでも彼は、腫れ物にでも触るように慎重に私を抱き上げた。

「どうしてまだ寝てないんだ? 顔色が真っ白じゃないか。また悪夢でも見たのか?」彼は私をベッドへと運ぶ。

「大丈夫だ。最高の精神科医を手配したからな。すぐに良くなるよ、約束する」

 額に当てられた彼の手は、慣れ親しんだ温度を持っていた。

 以前なら、この温もりに縋り、彼の胸に顔を埋めて慰めを求めていただろう。

 けれど今はただ、吐き気がするだけだ。

 私は彼の胸に身を預け、震える声で問いかけた。

「和久……本当に、私にこの子を産んでほしいの?」

次のチャプター