第2章
「もちろんだ」
彼の掌が私の腹部を覆う。その声には、断固とした揺るぎない決意が宿っていた。
「この子は、俺の実の骨肉同様に慈しむ。誓うよ。君たちに最高の生活と、誰よりも盛大な結婚式を約束すると」
私はその敬虔ですらある面持ちを見つめ、不意に込み上げる失笑を嚙み殺した。
もし書斎の外であの会話を聞いていなければ、この優しさを救いだと錯覚していただろう。彼の「過去を不問に付す」寛大さに、死ぬほど申し訳なさを感じていたはずだ。
だが今、胃の腑に込み上げてくるのは強烈な吐き気だけ。
──そもそも、これは彼の種なのだから。
「明日は母さんの誕生日だ」
私の思考を断ち切るように、彼は穏やかに告げた。
「一緒に実家へ行こう。口は悪い人だが、心の中では君のことを案じているんだ」
行きたくない。そう言いかけた時には、彼はすでに立ち上がっていた。まるで私の意思など関係ないと言わんばかりに、当然のように決定を下す。
「早めに休むといい。明日は俺がずっと傍にいる」
ベッドに身を横たえ、虚ろな目で天井を仰ぐ。
命を懸けて私を守ると誓った男は、もう死んだのだ。
今ここにいるのは、深情けという名の仮面を被った、ただの赤の他人だった。
濱野家の本邸は、招かれた客たちで溢れ返っていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、無数の視線が突き刺さるのを感じた。その焦点は、わずかに膨らんだ私の下腹部だ。
「……あれがそうでしょう? 三日も監禁されて、戻ってきたら妊娠していただなんて」
「まったく、和久様もよくやるよ。緑の帽子を被らされても平気とはね」
「上流階級ってのは業が深いねえ。穢された身体でよくもまあ、平気な顔して出てこられるものだ」
私はクラッチバッグを強く握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで正気を保った。
かつて、濱野和久の母は私に対してそこまで酷薄ではなかった。両家の婚約が整い、私が濱野和久の許嫁となってからは、慈愛とまではいかずとも、年長者としての体面は保ってくれていたのだ。
だが、「誘拐事件」を境に全てが一変した。
父は婚約相手をリリに変更し、私を別の家へ嫁がせようとした。それを濱野和久が頑なに拒み、私を庇い立てたからこそ、今の立場がある。……だが、今となっては彼が心変わりしている以上、私に拒絶する理由は残されていなかった。
濱野奥様の眼差しは、冷淡から嫌悪へ、そして嫌悪から露骨な侮蔑へと変わっていた。
対照的に、リリに向ける眼差しはまるで生き別れた実の娘に対するそれだ。
今なら分かる。彼女は最初から、濱野和久とリリの関係を知っていたのだ。
客間の上座に濱野奥様が鎮座し、その傍らにはリリが殊勝な顔で控えている。彼女は蜜柑の皮を剥き、丁寧に一房ずつ分けていた。
私の姿を認めると、リリはすぐに蜜柑を置き、怯えたような瞳で立ち上がった。
「古見優希……来てくれたのね」
その声は儚げだ。
「お体……大丈夫?」
一拍置き、彼女はポケットから小さな箱を取り出した。
「優希がよく悪夢を見るって聞いて……教会で蝋燭を灯してきたの。これ、お守り。悪いものを……追い払えるといいんだけど」
彼女の視線が、意味ありげに私の腹部を掠めた。
ダンッ、と濱野奥様の杖が床を打ち鳴らす。
「そんなもので何になるというの」
彼女は隠そうともしない嘲りを込めて鼻を鳴らした。
「リリ、お前は身体が弱いんだ。そんな穢らわしい人間に近づくんじゃないよ。不浄なものが移る」
私の顔から、さっと血の気が引いていく。
無意識のうちに、私は濱野和久に助けを求めていた。
たった一言でもいい。
だが彼は、「母さん」と低く窘めるような声を漏らしただけだ。そこには諦めが滲んでおり、何より、彼は一度も私を見ようとしなかった。
それどころか、彼はリリを席へ戻し、労るように言った。
「リリも善意でやったことだ。あまり無理をするな、座って休むといい」
私はその場に立ち尽くし、掌に爪を立てて血が滲む痛みだけを感じていた。
これが、私の婚約者。
今この瞬間、彼が守っているのは、私の人生を地獄に突き落とした張本人なのだ。
「古見優希、濱野奥様を悪く思わないで」
リリの瞳が潤む。
「実は、和久も苦渋の決断だったのよ。あの日、誘拐犯から電話があった時、彼は狂ったように取り乱していたわ……でも会社の株価のため、一族をパニックにさせないために、冷静に対処するしかなかった……彼も、どうしようもなかったのよ」
濱野和久は小さく溜息をつくと、歩み寄って私の手を握った。
「余計なことは考えるな。今日は母さんの誕生日だ、明るく振る舞ってくれ」
そして彼はリリへと向き直り、瞬時にその眼差しを甘いものへと変えた。
「リリ、泣かないでくれ。元々身体が弱いんだ、障るといけない」
私は心が麻痺したまま立ち尽くしていた。この窒息しそうな空間から逃げ出そうと背を向けかけた時、若いメイドが盆を持って近づいてきた。
ひどく緊張しているようだ。
「お嬢様、お茶をどうぞ」
恐る恐る差し出されたカップを、私は無言で受け取り、頷いた。
メイドは安堵の息を漏らし、リリにお茶を注ぐために身を翻す。
その時だった──
彼女の足が絨毯の縁に取られた。体勢が崩れ、盆が傾く。
煮えたぎるような熱い紅茶が、リリの手の甲に直撃した。
「きゃあああっ!」
リリの悲鳴が響き、顔色が蒼白に変わる。
その瞬間、時間が凍りついたようだった。
私が反応するより早く、濱野和久は弾かれたように飛び出していた。私になど、一瞥もくれずに。
「リリ!」
悲痛な叫びと共に、彼は彼女を抱き寄せ、赤く腫れ上がった手を大事そうに捧げ持つ。
「早く医者を呼べ! 何をしてる、棒立ちになってないで動け!」
周囲の使用人たちは恐怖に竦み上がっている。
お茶をこぼした少女は床に膝をつき、ガタガタと震えていた。
濱野和久が振り返る。その瞳は、氷のように冷酷だった。
「貴様、どういうつもりだ」
「わ、わざとじゃ……ありません……」
少女が泣きじゃくる。
「わざとじゃない、だと?」
彼は獣のように咆哮した。
「リリの手にもし傷跡でも残ってみろ、貴様の命で償わせてやる!」
