第1章
午前三時。手術台の上の土佐犬は、虫の息だった。その体は傷だらけで――鞭の跡、噛み傷、電気ショックによる火傷が痛々しく刻まれている。その瞳には、人間に完全に裏切られた者だけが持つ、深い絶望が宿っていた。
「よしよし、大丈夫だよ、いい子だ」
私はゴム手袋をはめ、優しくその頭を撫でた。
「私が治してあげるからね」
入り口から、聞き覚えのある足音が響いた。剛臣(たけおみ)だ。黒いレザージャケットを羽織ったままの姿で、その拳には血が滲んでいる。彼が入ってきた瞬間、鼻をつく臭いが漂ってきた――汗と血、そして裏社会の賭博場特有の、腐敗した金の臭い。
「またゴミ拾いか?」
彼はドア枠に寄りかかり、軽蔑しきった声で言った。
私は顔を上げることなく、犬の傷の洗浄を続けた。
「命に値札なんてないわ、剛臣」
数秒の沈黙。やがて彼が歩み寄ってくると、その声色は不意に優しさを帯びた。
「わかってる。だからお前を愛してるんだ」
またこれだ。一秒前まで金勘定をしていたかと思えば、次の瞬間には私の優しさを愛していると言う。
「帰りが遅かったのね」
縫合を続けながら、私は言った。
「仕事のトラブルだ。大悟(だいご)さんの件で、ちょっと揉め事があってな」
大悟。剛臣のボスであり、霧崎(きりさき)の地下格闘技を仕切る元締めだ。
「午前三時までかかるトラブルって、一体何?」
剛臣は答えず、私の隣に移動して犬を見下ろした。
「こいつ、助かるのか?」
「ええ」思いのほか、強い声が出た。「生き延びるわ。そして、また人間を信じることを学ぶの」
剛臣は笑ったが、その目は全く笑っていなかった。
「お前はいつだって楽観的だな」
「信じなきゃいけないからよ。命は救えるって」私は手袋を外し、ようやく彼と目を合わせた。「そうじゃなきゃ、この世界はあまりに救いがないもの」
十二時間後、霧崎市立病院。
何週間も先延ばしにしていた受診だったが、しつこい倦怠感と背中にまとわりつくような痛みに耐えかね、ついにここへ足を運んだのだ。
三十二歳という年齢もあり、保護施設の運営によるストレスだろうと自分に言い聞かせていた。だが、疲労感は悪化する一方で、肩甲骨の間の鈍痛はいつまで経っても消えようとしなかった。
「最近、妙に疲れやすくて……」初診の際、私は真田(さなだ)先生に説明した。「それに、背中の痛みがずっと続いているんです。休んでも治まらなくて」
彼女は頷きながらメモを取った。
「その症状はいつからですか?」
「六週間ほど前からです。大型犬を持ち上げたり、長時間労働が続いたせいだと思っていたんですが……」私は肩をすくめた。「何か、おかしいんです」
触診と初期の血液検査の後、真田先生の表情が曇った。
「症状と血液検査の結果を総合すると、より詳細な検査が必要です。超音波検査と、念のためにCTスキャンを行いましょう」
「どこか悪いんでしょうか?」
「結論を急ぐ前に、まずは結果を見ましょう」
二時間後、戻ってきた彼女は穏やかな笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「ええと、まずは良い知らせです。妊娠されていますよ。五週目です」
私の手は、無意識にお腹へと伸びていた。
「ですが……」彼女の表情が真剣なものに変わる。「スキャンの結果、あなたの症状の原因が判明しました。膵臓に腫瘍があります。進行した膵臓癌で、他の臓器への転移も確認されます」
先生の声は優しかったが、その一語一語がハンマーで殴られたような衝撃をもたらした。
「早急に妊娠を中絶し、化学療法を開始することを強くお勧めします」
「もし……この子を産むことを選んだら?」
「その場合、余命は半年程度と考えられます」
半年。あの数週間の倦怠感、無視し続けた背中の痛み――私の体はずっと訴え続けていたのだ。人生というものは、なぜこれほど皮肉なのだろう。最大の希望を与えられたその時、体はすでに裏切りを告げているなんて。
その日の夕方。私はリビングに座り、二枚の報告書を見つめていた。
一枚は、私が妊娠しているという知らせ。もう一枚は、私が死ぬという宣告。
帰宅した剛臣は疲れ切った様子で、拳には擦り傷があり、いつもの「仕事」の余韻を漂わせていた。
彼が座った瞬間、携帯電話が震えた。画面には「美雪(みゆき)」と表示されている。彼は素早く着信を拒否したが、すぐにまた鳴り出した。
「美雪って誰?」私は尋ねた。
「ビジネスパートナーだ」早口すぎる。「新しい出資者だよ」
私は癌の診断書をソファのクッションの下に隠し、妊娠の報告書だけを手元に残した。
「剛臣、驚かないでね。赤ちゃんができたの」
彼の表情が一瞬にして変わった――衝撃、困惑、そして……あれは、迷惑そうな顔?
「本当か? このタイミングで?」
……なによ、その反応。
「ええ、今よ。私たち、一緒になって二年になるじゃない」
剛臣はこめかみを揉んだ。
「急だな……」
また電話が鳴った。まだ美雪からだ。今度は彼も拒否しなかった。
「出なきゃ」彼はバルコニーへと出て行った。
言葉の内容までは聞こえなかったが、その声は優しく、さっき私に話しかけた時とは全く違っていた。
五分後、彼は戻ってきた。
「子供のことだが……話し合う必要がある。タイミングが悪いんだ。今、仕事が複雑な状況で……」
「剛臣、あなたの子供の話をしているのよ。私たちの子供よ」
「わかってる。だが、俺の仕事がどういうものか知ってるだろ。今は子供を作るのにいい時期じゃない」
私は彼を見つめた。急激な吐き気がこみ上げてくる。
「あなた、この子が欲しくないのね」
長い沈黙。
「そんなことは言ってない。ただ、タイミングが悪いと言ってるんだ」
また彼の電話が鳴った――今度は大悟からだ。
「行かなきゃならない。緊急事態だ」彼はもうコートを掴んでいた。「明日話そう、いいな?」
ドアが乱暴に閉まる音がした。私は窓辺に歩み寄り、剛臣の車が港湾地区へと向かっていくのを見送った。
そこは、大悟の地下格闘技サーキットが行われている場所であり、まだ、この街の罪の温床でもある。
私はソファに戻り、癌の診断書を引き出した。
半年。
私は暗闇の中に座り込み、片手をお腹に当て、もう片方の手で人生を一変させる診断書を握りしめたまま、身動きが取れずにいた。
