第2章
北条千雪は闇の底から目を覚ました。
頬に残っていた涙はとっくに乾いて、透明な筋になって固まっている。
強張る身体を動かし、まるでプログラムされたロボットのように、コマ送りで朝食を作った。
鷹司京介が煙草に火をつけ、階段を下りてくる。煙が顔の半分を覆い、輪郭を曖昧にして表情は読めない。ただ、鋭く深い目だけが見えた。
視線がぶつかった瞬間、北条千雪の心臓が跳ねる。
次の瞬間――ガシャァン。
出来上がっていた朝食が、すべて床へ突き落とされた。
「北条千雪。誰の許しがあって睦月の真似をした。お前にそんな資格があるのか!」
北条千雪は目を伏せる。血の気の引いた顔。真っ白で、何の温度もない。
感情を失った人形のようにしゃがみ込み、散らばったものを片づけ始めた。
鷹司京介が苛立ったように手を伸ばし、彼女の腕を乱暴に掴んで引き上げる。
「北条千雪。誰に向けてその顔してんだ。喋れ!」
北条千雪は手を振りほどき、無感情にしゃがみ直して、また黙々と動き続ける。
鷹司京介が冷笑し、かがみ込んだ。床に散った卵を拾い集め、まとめて彼女の口へ押し込む。
「んっ……!」
反射で抵抗する。けれど口の中は卵で塞がれていき、息が詰まっていく。
窒息しそうになり、顔色がみるみる青白くなる。骨に染みる冷えが臓腑へ広がり、全身が震えた。
どれほど経ったのか。押さえつけていた手が、ようやく止まる。
北条千雪は床に伏し、激しく咳き込んだ。目は真っ赤で、喉が裂けそうになる。
それでも喉は蟻の群れに詰まったみたいに痛み、神経から肉まで崩れるようで、勝手に生理的な涙が滲む。
鷹司京介は見下ろし、残酷なほど冷たい声で言った。
「食えよ。睦月の真似がしたいんだろ。あいつ、卵が一番好きだった。食え!」
「北条千雪。睦月になるって言うなら、ちゃんと学べ!」
バタン、とドアが閉まった。
広いリビングに残ったのは、散乱した朝食と静寂だけ。
北条千雪は唇を噛み、心がじわじわ沈んでいくのを感じた。涙が大粒で落ちる。
荒い息を繰り返しながら、震える手で卵を一つずつ拾い――口へ入れた。
胃がせり上がり、吐きそうになる。けれど無理やり押し殺して飲み込む。
これは、お姉ちゃんがいちばん好きだったもの。
北条睦月と違い、北条千雪は生まれつき卵が苦手だった。匂いだけで吐き気がする。
子どもの頃から、いつも北条睦月が代わりに食べてくれた。
そのたび、困ったように笑って言った。
「千雪、もう次はないよ」
でも睦月は、決して拒まなかった。
次も、その次も。
――本当に、次は来ない。
北条千雪は目を真っ赤にし、卵を一つ、また一つと無理やり口に詰め、乾いたまま咀嚼した。
胃は波立ち、吐き出したくなる。けれど口元まで上がってきたものを必死に押し戻し、また飲み込む。
豆粒みたいな涙が、ぽろぽろ落ちる。
胸の奥を激痛が走り、唇を噛み切って血が滲む。口の中に鉄の味が広がった。
まずいよ、お姉ちゃん。
卵なんて、ちっとも美味しくない。
北条千雪の瞳は猩々みたいに赤い。片手で床を支え、もう片方で卵を拾い、無表情のまま口へ押し込み、飲み下した。
半分ほどで限界が来た。腹を押さえ、トイレにしがみつくようにして吐く。
立ち上る悪臭。北条千雪は目を閉じ、涙で顔を濡らした。身体から力が抜け、理由もない寒気が細かく這い回る。
着信音が鳴って、ようやく立ち上がった。
「もしもし、北条千雪? このあと会食がある。会社代表で出て」
「……はい」
彼女は上場企業の部長だ。普段は表に出る仕事ではないが、大きな会議や会食には呼ばれる。
紫の背中が開いたイブニングドレスで会場に現れると、視線が集まった。
だが取引先を見た瞬間、息が止まる。相手は鷹司京介だった。
上司がへこへこと紹介する。
「こちら鷹司社長です。鷹司社長、こちらは北条千雪です。千雪って呼んでください」
北条千雪が動かないのを見て、上司が目で促す。
「千雪、早くご挨拶を」
腕を軽く叩かれ、彼女が口を開きかけた、その瞬間。
向かいの男が冷たい弧を描いた。
「挨拶はいい。俺には過ぎたものだ」
鷹司京介は革張りのソファに座り、ワイングラスを指で揺らす。
「これ、全部飲め。そうしたら契約にサインしてやる」
「分かりました」
北条千雪は迷いなくグラスを取り、飲み干した。
赤ワインが喉を滑り、熱い酒気が食道を焼く。
身体が割れるみたいで、外界の感覚が遠のく。彼女はただ、硬直したまま同じ動作を繰り返した。
一杯、また一杯。
テーブルのグラスが空になっていき、最後には立っているのもやっとだった。
目に薄い水膜が張る。かろうじて平衡を保ち、問いかける。
「……これで、いいですか?」
「いい」
鷹司京介はようやく目を上げ、深く冷たい瞳を細めた。
「北条千雪……お前のこと、見くびってた」
北条千雪は唇を結び、一言も言わない。
周囲の視線が、息のできない網のように彼女を絡め取る。逃げ場はない。
沈黙が張りつめた、その時。
鷹司京介が突然、空のグラスをまとめて叩き落とした。ガラガラと割れる音が個室に響く。
「出てけ」
北条千雪は目を伏せ、部屋を出た。
ドアを閉める刹那、中から媚びた声が漏れる。
「鷹司社長……」
北条千雪は無表情のまま、隙間を最後まで閉じた。
外へ出ると、深夜だった。
冷たい何かが、頬に落ちる。
ぼんやりと顔を上げる。
――雪だ。
三年前の今日、かつてない大雪が降った。
吹雪の中、鷹司京介は仇に嵌められ、路地裏で倒れていた。
助けたのは北条千雪だった。
背中の男は重く、北条千雪は唇を噛み切り、靴擦れで足を血だらけにしながら、一歩ずつ引きずって帰った。
ほんの数分の距離を、一時間以上かけて。
その後、見舞いに来た北条睦月が二人を見つけ、話し合った末に鷹司京介を匿うことにした。
当時の鷹司京介は記憶の大半を失い、名前以外は何も覚えていなかった。
誰に対しても強い警戒心を向け――ただ、北条睦月だけには違った。
二人は恋に落ちた。
北条千雪は局外者みたいに、出会いから恋までを見守り、想いを交わす姿を見続けた。
あの雪は、凍えるほど冷たかった。
三年経っても、身体の奥に刺さる冷えを覚えている。
北条千雪は手を伸ばし、舞い落ちる雪を受け止めた。
温かい掌で、すぐ水になって溶ける。
寒いよ、お姉ちゃん。
あなたがいない冬は、もっと寒い。
北条千雪は小さく笑った。胸の中は空っぽで、何もない。降りしきる雪が、すべて頬の涙に変わっていく。
三年前に戻れたらいいのに。
鷹司京介を助けなければよかったのに。
死んだのが私だったら。
もし……もし……。
――何も起きなかったなら、よかったのに。
