第3章
北条千雪は一人で家へ戻った。
しばらくして、部屋のドアが押し開けられる。
鷹司京介が足元をふらつかせながら、女を抱くようにして入ってきた。酒の気をまとっていても、目つきだけは鋭い。
「コンドーム買ってこい」
胸の奥がひやりと冷える。北条千雪は反射的に顔を上げた。鷹司京介の憎悪に満ちた視線が、釘のように自分へ打ち込まれているのが分かる。
まるで、心臓へ突き立てられる寸前の刃だ。
彼女は背を向け、せめてもの善意でドアを閉めようと足を上げた。すると、鷹司京介がわざとらしく笑う。嘲りをたっぷり滲ませた声だった。
「やっぱりやめだ。お前、こっち来い」
口元だけを歪め、昏い双眸をさらに沈ませる。
「そこでちゃんと立ってろ、千雪。妻の役目を忘れるな」
北条千雪の瞳がかすかに揺れた。それでも、黙って歩み寄る。
ほどなくして、部屋の中から女の艶めいた声が漏れた。一言も残さず、北条千雪の耳へ流れ込んでくる。
「鷹司社長……鷹司社長……」
「京介って呼べ」
一つ一つの言葉が、毒を塗った刃のようだった。頭上に吊られ、今にも落ちて胸を抉ろうとしている。
北条千雪は目を閉じた。その刃が寸分違わず心臓へ食い込み、息もできなくなる気がした。
心の中で、時間を数え始める。
――バンッ。
三十秒も経たないうちに、ドアが再び開いた。
この時間なら、きっと何も起きていない。
北条千雪は小さく息をつく。
鷹司京介が大股で歩み寄り、彼女の顎を掴んだ。昏く濁った目で吐き捨てる。
「千雪、お前ってほんと下品だな」
北条千雪の息が詰まる。
次の瞬間、連れてきた女が後ろから鷹司京介に抱きつき、甘ったるい声を出した。
「鷹司社長、もう放っておきましょうよ。私、もう準備できてますから」
「消えろ」
鷹司京介が鋭く睨みつける。
女はたちまち手を放した。顔を真っ青にして、転がるように逃げていく。
北条千雪の睫毛がかすかに震えた。顎を掴む力はさらに強まり、もう無視できない痛みに変わる。
「千雪、その顔がなけりゃ、お前もあいつと同じ末路だ」
「睦月と同じ顔をしてることだけは……ありがたく思え」
鷹司京介は彼女の顎を掴んだまま、鏡の前へ引きずった。
白い太腿が擦れて、たちまち傷が走る。細い血がじわりと滲んだ。
それでも鷹司京介は見えていないかのように、容赦なく彼女の腕を引き上げる。
北条千雪は恐怖に目を見開いた。次に何が起こるのか、すぐに分かってしまう。口を無理やり開かされ、顔を上げさせられ、肺の中の空気が少しずつ奪われていく。
「や……やめて……!」
鏡の中には、北条睦月によく似た顔が映っていた。怯え、もがき、赤くなった目から生理的な涙をこぼしている。
鷹司京介は彼女の顎をきつく捻り上げ、凶気に満ちた目で怒鳴った。
「よく見ろ、北条千雪。睦月を見ろ。あいつが死ぬ時、どれだけ苦しかったか……ちゃんと見ろ!」
北条千雪は必死に目を閉じようとした。
けれど、脳裏に焼きついた光景は、どうしても振り払えない。
やめて……やめて……。
お願い……お姉ちゃん、私を助けないで……。
彼女は北条睦月の写真を見たことがある。
全身重度熱傷。懸命の処置もむなしく死亡。医師から、これが姉の北条睦月だと告げられなければ、どうしても信じられなかった。
視界がじわじわと滲んでいく。北条千雪は声ひとつ出せない。口を開いて、閉じて、それを何度繰り返しても、言葉にならなかった。
お姉ちゃんは……あんなふうだったの?
けれど、その姿には北条睦月の面影がひとかけらも残っていなかった。
人はこんなにも脆いのだ。
人と人との縁は、こんなにも浅いのだ。
たった一度の火事で、何もかも消えてしまうほどに。
北条千雪は自分の手で姉を火葬場へ送った。骨壺は重かった。初めて握った北条睦月の手と、同じくらい重かった。
「ほら、見ろ。自分の顔を」
鷹司京介が無理やり彼女の瞼を開かせる。
「北条千雪、お前に何が返せる!」
北条千雪は崩れるように首を振り、震える手で頭を抱えた。
「やめて……いや……!」
幾つもの悪夢が、一度に押し寄せる。北条睦月は固く目を閉じたまま、どれだけ呼んでも目を覚まさない。その夢の中では、雪が何度も何度も降り積もり、最後には炎が燃え上がって、すべてを焼き尽くしていく。
北条千雪は全身に冷や汗をにじませ、目を見開いたまま吐き気に襲われ、狂ったように首を振った。
後ずさりして逃げたくても、鏡の中の像だけが視界いっぱいに膨れ上がる。
「見ないで……私を……お姉ちゃん、や……やめて……」
鷹司京介は冷笑し、ようやく情けをかけるように手を放した。北条千雪は支えを失い、そのままずるりと床へ崩れ落ちる。
頭の中は真っ白だった。身体を小さく丸め、自分を抱きしめるようにして、ぼんやり鏡を見つめる。鏡の中の顔も、同じように彼女を見返していた。
北条睦月に似たその顔は、今やただ麻痺したように強張っている。
本当は、彼女と北条睦月は少しも似ていない。
生まれてすぐ、両親は仕事の都合で北条睦月を都会へ連れていき、彼女は祖父母の暮らす田舎へ預けられた。
自分は脆く、傷つきやすい。
北条睦月はさっぱりしていて、明るかった。
北条睦月は優秀で、成績もよく、誰からもいい子だと言われていた。
それに比べて自分は、片隅に生えた名もない草でしかない。
部屋の明かりが点いては消え、鷹司京介は彼女の苦しむ様を味わい尽くしたのか、背を向けて出ていった。
最後の光が途切れたあとも、北条千雪は床にうずくまり、目だけが虚ろに開いたままだった。
翌日、一本の電話がかかってきた。
北条克己からだった。
彼はため息まじりに、困ったような声で言う。
「千雪、食事でもしに来なさい。父さん、お前に会いたい。母さんも……会いたがってる」
北条千雪は承諾した。
誰かを責める資格なんて、自分にはない。
姉の代わりに生きて、ちゃんと生き続けなければならない。
邸宅の敷地前に着いてから、北条千雪は自分に入る権限がないことを思い出した。しばらくゲートの前で待つ。
雪が肩の上に積もるころ、ようやく北条克己が迎えに来た。
北条克己は何かを思い出したように口を開く。
「そうだ……睦月がいなくなってから、家の中が寂しくてな。母さんが……客を呼んでるんだ」
「うん」
北条千雪はほとんど聞き流していた。けれど玄関まで来て、見慣れない靴が一足増えているのに気づく。
彼女は一瞬足を止めたが、それでも中へ入った。
リビングには、白いワンピースを着た少女がいた。柔らかく明るい笑みを口元に浮かべている。はっきり見えないのに、なぜか妙に見覚えがあった。
近づくほどに、その既視感は強くなる。
唇を噛む。心臓が無慈悲な手でぎりぎりと握り潰されるみたいだった。
少女は北条涼子の隣で口を尖らせ、何かを話している。
それに北条涼子は声を立てて笑い、見たこともないほど慈しみに満ちた目を向けていた。
玄関の音に気づいて、北条涼子が振り向く。
その表情は一瞬で冷えた。まるで、見たくもない汚れでも目にしたように。
少女も空気の変化を察したのか、視線の先を追って振り返る。
弾むような明るい声だった。
「お母さん、その人だれ?」
北条千雪の全身が一瞬で凍りつく。瞳孔が大きく開き、氷の底へ沈められたみたいに血まで凍った。
――そこにあったのは、北条千雪よりもずっと北条睦月によく似た顔だった。
