第5章 死んだほうがいい
鷹司京介の視線が、北条千雪の頬に浮かんだ――かすかな、温もりに支えられた笑みを捉えた瞬間。
眼底の氷が、刃のように鋭く立った。
――どうして。
北条睦月が炎の中で無惨に死んだというのに。
この女は、まだ笑えるのか。
鷹司京介は歩幅を詰め、千雪の手首を掴み上げた。骨が砕けるほどの力。毒を含んだ声が落ちる。
「姉ちゃんを殺しておいて……まだ笑える顔があるのか」
おばあちゃんが止めに入ろうとしたが、鷹司京介のボディガードに遮られ、焦った目で見守るしかない。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。……この人、私の夫なの」
北条千雪は最後にそう言って、安心させるように視線を向けた。
次の瞬間、よろめくまま車へ押し込まれる。
肩に積もった雪が、さらさらと落ちた。手の甲に触れた冷たさは、刃物みたいに痛い。
さっきのおばあちゃん――自分の祖母に、どこか似ていた。
あんなふうに心配してくれる目も。
……お姉ちゃんにも、少し。
その、滅多に得られない温もりに浸っていた耳へ、鷹司京介の言葉が悪魔の囁きみたいに突き刺さった。
「北条千雪。よく聞け。お前が生きてるのは罰だ。享受するためじゃない」
享受……。
そうだ。彼女が生きるのは贖罪のため。温もりなんて似合わない。
千雪が人形みたいに黙っているのが気に入らないのか、鷹司京介は苛立たしげにネクタイを引いた。声音はいつも通り、冷えたまま。
「明日、クルーズの集まりがある。俺と来い」
「……私が?」
信じられなかった。
彼の世界の集まりに、連れていく? 何を考えているのか、知りたくもない。
北条千雪は窓にもたれ、そのまま目を閉じた。
隣で、嵐が育っているとも知らずに。
翌日。郊外の豪華客船が、ゆっくり港を離れた。
鷹司京介に連れられた千雪のドレスは、サイズの合わない安物だった。布地は薄く、海風に抗えない。
甲板は煌々と灯り、富豪と令嬢たちが華やかに集う。
千雪を見つけた瞬間、囁きが潮のように押し寄せた。
「北条家の……実の姉を死なせた恩知らずじゃない?」
「姉の墓前で義兄に結婚迫った女。下品すぎ」
「姉を殺したから鷹司社長に嫁げたんでしょ」
「私なら海に飛び込んで死ぬわ。どの面下げて来るの」
「鷹司夫人がその格好? コネ目当てじゃないの?」
刺す言葉が耳へ突き立つ。
千雪はスカートを握りしめ、指先が白くなる。
そして鷹司京介は、もう彼女の手を離していた。
向かった先は、人混みの中の篠原茉優。
篠原茉優は控えめなシャンパン色のロングドレス。北条睦月が生前好んだ色と型。
鷹司京介を見つけると、愛らしく笑って腕に絡みついた。
「京介、風が強い……寒いよ」
鷹司京介はジャケットを脱ぎ、優しく肩にかける。指先が髪に触れる仕草まで柔らかい。
かつて姉に向けたものを、今はこの女へ。
――やっぱり。
自分より姉に似た女のほうが、彼を惹きつける。
鷹司京介は茉優を伴い、富豪たちの輪を渡り歩く。千雪には一度も視線を寄越さない。
ひとりになった千雪は、令嬢たちの格好の的になった。
皆知っている。鷹司京介が彼女を娶ったのは愛ではなく、折檻のためだと。
わざとぶつかられ、反抗しないと分かると、赤ワインを浴びせられた。
「ごめんなさーい。人がいるなんて気づかなかった」
令嬢が口元を押さえ、作り笑いをする。
「だって、いるだけで空気みたいな人もいるでしょ?」
ドレスは濡れ、ワインが滴る。肌にまとわりついて冷たく、屈辱的だった。
庇護の光を求めて鷹司京介を見上げそうになる。だが彼は茉優の話に耳を傾け、余光すらくれない。
当然だ。彼女が苦しめば苦しむほど、彼は嬉しい。
「気持ち悪い」
「鷹司社長、なんで連れてきたの。場が台無し」
辱めの波が千雪を呑み込む。
姉が生きていたら――姉なら、愛する妹をこんなふうに放っておかない。
お姉ちゃん……どうして助けたの。
死ぬべきだったのは私なのに。
千雪は唇を噛み切った。鉄の味が口に広がる。それでも、涙は落とさない。
そこへ篠原茉優が鷹司京介を連れて来た。助けるどころか、群衆に同調する。
「ねえ千雪。ほら、そこにいるだけでみんな怒ってるよ。お酒注いで謝りなよ。睦月を死なせたんだもん」
鷹司京介の冷たい目が、ようやく千雪を捉える。
底のない冷えが宿っていた。
「聞こえたなら、言われた通りにしろ」
北条千雪は、うねる海を見つめたまま動かない。
鷹司京介の忍耐が尽きた。
彼女の視線が海に吸い寄せられているのを見て、冷たく頷く。
「そんなに波が好きなら、そこで見てろ」
鷹司京介は千雪の手を掴み、船縁の甲板へ乱暴に引きずって突き飛ばした。
千雪は慌ててロープを掴む。
そして反射で、腕の古びた腕時計を庇った。
――それに触れている時だけ、自分が生きている気がした。
篠原茉優が追いかけてくる。焦った顔を作りながら、目元だけが楽しげに細い。
「京介、危ないよ……落ちたら……」
「死ねばいい」鷹司京介は冷笑し、千雪の腕時計に目を留める。
「それ、そんなに大事か」
腕時計を乱暴にもぎ取り、高く掲げた。
「やめて!」
祖母の形見。
手を伸ばしても、背丈の差で指先すら届かない。
「お願い……返して」
掠れた懇願に、鷹司京介は興味深そうに目を細めた。
「……へえ。本当に大事なんだな」
そして、ゴミを投げ捨てるみたいに――海へ放った。
「そんなに大事なら、取りに行け」
言い終える前に。
ドボン。
北条千雪は、躊躇いなく飛び込んだ。
「……っ、こいつ!」
氷の海水が一瞬で呑み込み、塩辛い水が喉に入り、激しく咳き込む。
濡れたドレスが鉛みたいに重くなり、身体を沈めていく。
焦ったせいか、腕が何か鋭いものに裂かれた。血が溢れ、海に赤が滲む。
「時計……」
呟きながら潜る。だが影などない。
ここから投げたのに、どうして。千雪はもう一度深く潜った。
祖母も姉も失った。最後のものまで失えない。
波が荒れ、血が広がる。
やがて、灰色の影が――いくつも、近づいてきた。
それでも千雪は浮いては沈み、息を継いでは潜り、時計を探し続ける。
「サメだ!」
甲板で見物していた女が背びれを見つけ、悲鳴を上げた。
騒ぎが連鎖し、鷹司京介も眉をひそめる。人が死ぬのは困る――ただそれだけだ。
「北条千雪! 探すのやめろ、上がれ! サメがいる!」
叫ぶ声。海へ投げ込まれる浮き輪やロープ。
サメ。
北条千雪は我に返り、振り向く。遠くで水が割れ、背びれが悪鬼みたいに迫ってくる。
「助けて!」
生存本能が千雪を船へ向かわせる。
だが脚の傷と、時計探しで消耗した身体は、思うように動かない。
そのとき、篠原茉優が鷹司京介を見た。
彼が救助を命じようと口を開きかけた瞬間、茉優が腹を押さえ、ふらりとよろめく。
「京介……お腹が痛い。部屋に連れてって……」
「分かった」
鷹司京介は茉優を抱き上げ、海の千雪を一度も見ないまま去っていった。
北条千雪は、海の中で固まった。
甲板の灯りへ消えていく背中。
背びれが近づく。死の匂いが覆いかぶさる。
涙が止まらないのに、手の動きが止まった。
――これでいい。
私と鷹司京介は最初から釣り合わない。私は姉の願いを叶えるために生きてきた。けれど彼の隣には、もっと姉に似た人がいる。なら私は約束を破らない。姉のところへ行ける。
お姉ちゃん、もう疲れた。
このままサメに食われて死ねば、姉と祖母に会えるだろうか。
身体は凍え、力が抜けていく。
朦朧とする視界に、北条睦月が見えた。笑って手を振り、妹と呼ぶ。
「……お姉ちゃん」
北条千雪は必死に泳いだ。
けれど、その方向は船ではない。サメの方向だった。
波間に、サメの影が迫る。
死の気配が、空を覆い尽くしていく。
