第1章
郊外の墓地。
今日は、相葉栞里の母親の一周忌だった。
彼女は墓石の前にひざまずき、そこに嵌め込まれた母の写真を、指先でそっと拭っていた。
本当なら、夫と息子も連れて来たかった。けれど辰也が朝から体調を崩し、やむを得ず、氷上颯に先に病院へ連れて行ってもらったのだ。
それなのに。
午前から待ち続けても、午後になっても、父子の姿はついに現れなかった。
午後3時、一度目の電話。出ない。
4時、二度目の電話。やはり出ない。
5時、墓地は閉園の準備に入り、管理人が彼女を見て何か言いかけ、結局は口をつぐんだ。
相葉栞里は三度目の電話をかけた。長いコール音のあと、ようやく繋がる。
けれど彼女が口を開くより早く、向こう側で喧騒がぱっと弾けた。
笑い声。風船が破裂する鈍い音。子どもの弾んだ歓声。
「加奈おばさん、早くお願いして!」
辰也の声だった。
受話器越しでもわかるほど、隠しようのない嬉しさが弾んでいる。
続いて、聞き慣れた女の声がした。
やわらかく、笑みを含んだ、栗山加奈の声。
「来年もまた、氷上さんと辰也くんと一緒に、お誕生日を過ごせますように」
相葉栞里はスマホを握ったまま、頭から氷水を浴びせかけられたように凍りついた。
喉の奥に声がつかえ、息すらうまくできない。
夫と息子が。
母の命日に、よりにもよって、別の女の誕生日を祝っている。
しかも次の瞬間、さらに胸を引き裂く言葉が耳に飛び込んできた。
「加奈おばさん、安心して。これからは毎年、僕とパパが一緒にお祝いするから! 僕、ママのこと好きじゃないし、加奈おばさんがママだったらいいのに」
「辰也、そんなこと言っちゃだめよ。ママはあなたに優しくしてくれてるでしょう」
栗山加奈の声はたしなめるようでいて、その奥に隠しきれない得意げな甘さが滲んでいた。
「ぜんぜん優しくない!」
辰也はふんと鼻を鳴らす。
「いつも宿題しろって言うし、すぐ怒るし。加奈おばさんは怒らないもん。おいしいケーキも作ってくれるし!」
「それに、パパもママと一緒にいると笑わない。おばさんといる時だけ笑うんだ!」
心臓を鋭い錐で貫かれたように痛かった。
息が止まりそうになる。
――息子は、そんなふうに自分を見ていたのか。
しつけのための厳しさは意地悪に変わり、体を気遣って甘いものを控えさせたことさえ、責め立てるための理由になる。
けれど辰也は幼い頃から体が弱かった。
彼女が食事を細かく管理し、徹底して気を配ってきたからこそ、今のあの元気な姿がある。
それでも、その年月をかけた想いのすべてが、たった一言の「好きじゃない」で踏みにじられてしまう。
相葉栞里はそっと目を閉じた。
目の奥が焼けるように痛むのに、涙はこぼれない。
きっと、この一年で流し尽くしてしまったのだ。
一年前。
栗山加奈は氷上颯をかばって交通事故に遭い、その後遺症で、残りの人生を車椅子で過ごす可能性が高いと告げられた。
彼女は何度も死にたいと言った。
そのたびに氷上颯は、これから先ずっとそばにいる、自分が君の足になると誓い、ようやく少しずつ落ち着いていった。
氷上颯は相葉栞里に言った。
栗山加奈には命を救われた。だから、できる限り彼女の望みを叶えたい。どうか理解してほしい、と。
相葉栞里にも、栗山加奈が夫を救ってくれたことへの感謝はあった。
だから彼女は、呑み込んだ。
一年、理解し続けた。
一年、耐え続けた。
自分の夫を差し出すように譲り、どれだけ理不尽な願いを向けられても、ただ胸の奥で黙って耐えた。
つらくても、苦しくても、一人きりで部屋に籠もって泣くだけだった。
外では変わらず、度量があって気遣いもできる氷上夫人として振る舞い続けた。
けれど。
今日は母の命日だ。
父は早くに亡くなり、母がたった一人で彼女を育ててくれた。
母は、この世でたった一人の肉親だった。
ほかのことなら、まだ耐えられたかもしれない。
けれど、これだけは無理だった。
相葉栞里は、少し離れた墓碑の母の写真を見つめた。
一年前の、まさに今日。
息を引き取る間際、母は彼女の手を握って言ったのだ。
「栞里……お母さんがいちばん心配なのは、あんたのことよ。颯さんはいい人だから、ちゃんと支え合って生きていくのよ」
そこで、ようやく涙があふれた。
――お母さん、違うの。
あの人は、私だけの夫じゃない。
あの人はもう、栗山加奈のものなの。
受話器の向こうで、再び氷上颯の低い笑い声が響いた。
「辰也、こっち来い。パパと一緒にケーキを切るぞ」
「はーい!」
息子のはしゃいだ声が、少しずつ遠ざかっていく。
「パパ、いちばん大きいの僕ね! 加奈おばさんも早く!」
喧騒は、じわじわと離れていった。
相葉栞里は黙って通話を切る。
その瞳の光が、静かに、けれど確かに硬さを帯びていく。
――もう、耐えない。
……
午前3時。氷上邸。
窓の外で車のエンジン音がした。
相葉栞里が窓辺に立つと、見慣れた車がゆっくりと庭へ滑り込んでくる。
氷上颯は眠っている辰也を抱いて車を降りた。
車内では栗山加奈が笑いながら何かを話している。
氷上颯は彼女の耳元でやさしく何か囁き、見送ってから、子どもを抱いたまま家へ向かった。
玄関が開き、氷上颯が中へ入ってくる。
窓辺に立つ相葉栞里を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
「まだ起きてたのか」
相葉栞里は、黒々とした瞳でまっすぐ彼を見つめ、一語ずつ区切るように問いかけた。
「氷上颯。今日が何の日か、覚えてる?」
腕の中の辰也がうっすら目を開け、寝ぼけた声で呟く。
「パパ……加奈おばさんのケーキ、おいしかった……あの人が僕のママならいいのに……」
その一言が、鈍い刃で胸を何度も何度も引かれるような痛みになった。
目の奥が熱くなる。
それでも、こみ上げるものを彼女は無理やり押し戻した。
夫の腕の中にいる息子。
十月十日その身に宿し、丸一日と一晩の痛みに耐えて産んだ子だった。
去年の冬、辰也が高熱を出した時、彼女は三日三晩ほとんど眠らず看病した。
薬を飲ませ、体を冷やし、抱き上げてはリビングを何度も往復した。
その頃、氷上颯は海外で栗山加奈と雪を見ていた。
帰国した時には、辰也の熱はもう下がっていた。
そして息子は、栗山加奈の胸にもたれながら、うれしそうに言ったのだ。
「加奈おばさんが会いに来てくれたから、僕よくなったんだ」
彼女はただ、その場に立っていた。
三人が仲のいい家族にしか見えない光景を、外側から眺めるだけ。
誰も彼女を見ない。
誰ひとり、感謝の言葉すら口にしない。
「話があるなら明日にしてくれ。まず辰也を上で寝かせる。おまえも休め」
氷上颯の声が、回想の底から彼女を引き戻した。
相葉栞里は自嘲するように笑う。目の縁は赤かった。
「氷上颯。私たち、離婚しましょう」
声は静かだった。
けれど、刃のようにきっぱりとしていた。
この言葉を、胸の内で何度も何度も繰り返し、ようやく口にしたのだろう。
氷上颯の動きが止まる。
振り返って彼女を見たその目に、一瞬だけ驚きが走り、すぐに冷えていった。
「また何を言い出すんだ。俺と辰也が墓地に行かなかったから離婚するっていうのか」
「おまえだってわかってるだろう。加奈はまだ情緒が不安定なんだ。何より優先すべきなのはあいつだ」
相葉栞里は、もう一度笑った。
彼の中では、彼女が何を言おうと、何をしようと、全部ただの我儘なのだ。
「私は騒いでない。今がいちばん冷静よ」
「あなたの中で、誰よりも何よりも栗山加奈が大事なら……私は身を引く」
「そうすれば、あなたが彼女の誕生日を祝おうが、夫婦がするようなことをしようが、私のものを奪って彼女にあげようが……もう何も気にしなくて済むでしょう」
相葉栞里は深く息を吸い込み、胸の奥に広がる鈍い痛みを押し込めた。
そして鞄から、あらかじめ用意していた離婚届を取り出し、ローテーブルの上に置く。
「私の署名はもう済ませてあるわ。今の栗山加奈のいちばんの願いは、氷上夫人になることなんでしょう。だったら、あなたが叶えてあげればいい」
氷上颯の眼差しは、薄氷を張ったように冷えきった。
「相葉栞里。本気で言ってるのか」
「離婚なんて言い出せば、俺が折れると思ったのか?」
おかしくてたまらなかった。
こんな時になってもなお、彼はこれを駆け引きだと思っている。
相葉栞里は目を伏せた。
ローテーブルの上には、母の遺影を納めた写真立てがある。
胸の中が、すうっと灰になっていく。
――お母さん、ごめんなさい。
もう、本当に無理なの。
「どう思ってくれてもいいわ。私は必ず離婚する」
氷上颯の顔つきはいっそう険しくなり、声も冷えた。
「じゃあ辰也はどうする。息子まで捨てるのか」
相葉栞里は、今にも眠りに落ちそうな息子を見つめる。
声はかすかだった。
「子どもはあなたが引き取って。……もう、あの子は私を必要としてないもの」
息子の中には、もう自分よりもふさわしい「母親」がいる。
氷上颯が眉を寄せ、何か言いかけた、その時。
スマホの着信音が鳴った。
画面を見た瞬間、彼の表情が強張る。
すぐに通話を取ると、受話器の向こうから、栗山加奈の泣き混じりの声が響いた。
「颯……つらいの……」
