第6章 離婚協議書は、すでに届く途中だ
(牧野結菜の視点)
夜が明けた。ひと晩じゅう眠れず、目は血走ってひりついている。
床から立ち上がると、まとめておいたスーツケースをクローゼットのいちばん奥へ押し込み、そのまま洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗う。
三年。
心が死んだなら、人も去るべきだ。
着替えを済ませて階下へ下りる。リビングには誰もいない。階下の客室の扉だけが、まだ閉ざされたままだった。
私はキッチンへ行き、水を一杯注ぐ。それからダイニングに腰を下ろし、静かに待った。
何を待っているのか、自分でもよくわからない。
たぶん、この結婚に最後の体裁くらいは残しておきたかっただけ。
どれくらい経っただろう。
ようやく客室の扉が開いた。
村山愛未が、昨日と同じ高価なワンピース姿で出てくる。髪は少し乱れているのに、頬にはどこか満ち足りたような紅が差していた。
ダイニングにいる私を見つけた彼女は、一瞬だけ目を丸くし、それから唇の端をつり上げた。勝者の笑み。
「結菜さん、おはよう。昨日はあんまり眠れなくて。知らない場所だと落ち着かないの」
わざとらしく強調するその言い方が、何を見せつけたいのかを物語っていた。
私は顔を上げ、彼女の首元へ目をやる。
そこに、うっすらと赤い痕があった。
……そういうこと。
昨夜、彼が寝室へ戻らなかったのは、別の理由じゃなかった。
私はゆっくり目を閉じ、再び開く。
そのときには、瞳の奥はすっかり冷え切っていた。
「それで、話は終わったの?」
私がそう訊くと、村山愛未は一瞬たじろいだ。けれどすぐ、またあの得意げな顔に戻る。
「終わったよ。結菜さん、そろそろ現実を見たほうがいいんじゃない? 真司兄が愛してるのは私。あなたが福山夫人の席にしがみついても、意味なんてないよ」
言い終えると、彼女は腰を揺らしながら、これ見よがしに出ていった。
私はひとり、がらんとしたダイニングに残された。
コップの水がすっかり冷え切るまでそうしていて、それからようやくスマホを手に取り、弁護士へ電話をかける。
「離婚協議書、もう準備できていますか」
福山真司が会社の用事を終え、別荘へ戻ってきたのは、もう夕方だった。
扉を開けた家の中は真っ暗で、灯りひとつ点いていない。
「牧野結菜」
彼がひと声かける。返事はない。
その声を聞いて、私は二階から出ると、廊下に立ったまま彼を見下ろした。
真司は苛立たしげにネクタイを緩め、無造作にリビングの灯りを点ける。
明かりがついた、その瞬間。
彼の視線がソファの上の一点に吸い寄せられた。
一本の男物のネクタイ。
濃紺のストライプ。彼の趣味でも、彼の愛用するブランドでもない。
それがソファの肘掛けに、何気ない顔で掛けられていた。
福山真司の顔色がみるみる変わる。数歩でそこまで詰め寄ると、ネクタイをひったくるように掴み、ぐっと握り潰した。手の甲には青筋が浮いている。
「牧野結菜!」
振り向いた目は、今にも火を噴きそうだった。
「これは何だ?!」
私は彼の手にあるネクタイを見て、わずかに眉を寄せる。
見覚えのないものだった。
けれど、説明する気にはなれない。
「お帰りなさい」
口をついて出たのは、他人へ向けるみたいに平坦な声だった。
「何かって訊いてるんだ!」
彼はネクタイを私へ向かって乱暴に投げつけた。
ネクタイは私の足元へ落ちる。私はちらりと見下ろしただけで、表情ひとつ動かさない。
「牧野結菜、お前もいい度胸だな」
彼は一歩ずつこちらへ迫ってくる。声には怒気しかない。
「どうした? もう次の男でも見つけたのか? だから俺に逆らうようになったわけだ。そいつは誰だ!」
その問いは、平手打ちよりも強く頬を打った。
私は彼を見つめる。
十年愛して、三年尽くしてきた男を。
この人の中で、私はそんな軽い女だったのだ。
胸に広がったのは怒りではなく、どうしようもない哀しさだった。
言い訳なんて、もうしたくない。
説明して、何が変わるというの。
何も変わらない。
ふっと笑いが漏れた。ひどく乾いて、ひどく侘びしい笑いだった。
私は目を上げ、怒りに燃える彼の瞳をまっすぐ見返し、一語ずつ区切るように言う。
「何? あなたは初恋の相手とホテルに入って、家にも泊めて、それでも許されるのに。私は外に男を作ったら駄目なの?」
「お前……!」
その言葉に完全に逆上したのか、彼は突然手を伸ばし、私の手首を乱暴に掴んだ。骨まで砕かれそうなほど強い力。
しかも、ちょうど昨日ぶつけた場所だった。
新しい痛みが古い傷に重なり、さっと血の気が引く。
それでも私は眉ひとつ動かさず、ただ冷たく彼を見返した。
「そうよ。外に男がいるの。だから何?」
「死にたいのか!」
彼が手を振り上げる。
だが、その平手が落ちることはなかった。
「牧野結菜、警告しておく。今すぐその男と手を切れ」
歯を食いしばる音が聞こえてきそうな声だった。
「お前が一日でも俺の妻でいる限り、俺を裏切るなんて許さない。福山グループの株価にでも響いてみろ。お前も、その男も、ただじゃ済まさない」
吐き出される言葉のひとつひとつが、侮辱であり脅しだった。
私の心は、もう痛みにも反応しないほど麻痺している。
紫色に変わりつつある手首をそっと撫で、私は静かに顔を上げた。
「福山真司」
声は大きくない。
なのに、ひどく鮮明だった。
「私たち、離婚しましょう」
その瞬間、空気が凍りついた。
彼はぴたりと動きを止めた。
聞き間違いだとでも言いたげに。
離婚。
「離婚だと?」
彼は鼻で笑う。
「牧野結菜、お前、頭でもおかしくなったのか?」
一歩前へ出て、私を見下ろす。
その顔には、何もかも自分の支配下にあると信じて疑わない傲慢さが滲んでいた。
「教えてやる。この結婚をいつ終わらせるか決めるのは俺だ」
「俺と別れて、今みたいに悠々と暮らせると思うな。福山家を離れたお前なんて、何でもない」
彼は本気で思っているのだろう。
私がただ感情的になっているだけだと。
どうせ離れられない、と。彼からも、福山家の金からも。
だからこそ、こんなにも強気でいられる。
「余計なことは考えるな」
冷たく言い捨てると、彼はそのまま階段へ向かった。
「大人しく福山夫人をやっていろ。これ以上、俺の手を煩わせるな」
私はその背中を見送ったまま、何も言わない。
彼が知らないだけだ。
離婚協議書は、もうこちらへ向かっている。
それから――
あのネクタイを置いたのが、村山愛未だということも。
