第7章 それで、俺を呼んだのは彼女の運転手をさせるためか?
(牧野結菜の視点)
福山真司はドアを乱暴に叩きつけて二階へ上がっていった。
私は足元の、見覚えのないネクタイに視線を落とし、次いで階段のほうを見て――ふっと可笑しくなった。
もう、説明する気力すらない。
寝室へ戻り、署名済みの離婚協議書と銀行カードを、サイドテーブルの引き出しへ並べて入れる。
カードの残高は、この三年で切り詰めて貯めた分に自分の蓄えを足したものだ。福山婆さんが母の治療費を肩代わりしてくれた分と、福山家がこの三年、私に使った金――その全部を返すのに足りる。
きれいに出ていく。
福山家の金は一銭も持たない。福山家に、何ひとつ借りを残さない。
翌朝、スマホのけたたましい通知音で叩き起こされた。
画面を開くと、どのニュースサイトも私と福山家の話題で埋まっている。
【福山グループ社長、夫婦仲に亀裂か――福山夫人が深夜の密会】
【福山グループ社長の結婚生活に新展開? 福山夫人にはすでに恋人がいるとの情報も】
添えられていたのは、角度の悪意が露骨な盗撮写真だ。別荘前に立つ私、その少し先にいる男の後ろ姿がわざと赤丸で囲われ、いかにも「ただならぬ関係」に見える構図。
さらに、床に落ちていたあのネクタイの写真まで載っていた。
犯人なんて考えるまでもない。村山愛未だ。私を追い出すためなら、本当に何でもやる。
無表情のままニュースを閉じた、その直後。
義母――福山彩子から電話がかかってきた。
「牧野結菜! 恥ってものを知らないの?!」
通話がつながるなり、耳を刺すような声が飛んでくる。
「ニュース見たでしょう! うちの家に泥を塗って! 株価だって朝から下がってるのよ! ほんと疫病神!」
私はスマホを少し耳から離し、罵声が途切れるのを待った。
そして冷たく返す。
「……言い終わりましたか」
「あなた、その態度は何よ……!」
福山彩子は怒りで言葉を詰まらせ、すぐに金切り声に変わる。
「いい? その男とどういう関係かなんて知らない。でも今すぐ記者会見を開いて謝りなさい。全部誤解です、私に落ち度がありましたって言うのよ。真司には関係ないって!」
私に泥をかぶれと。
福山真司と福山家の体面を守るために。
「謝りません」
声は平坦で、波ひとつ立っていない。
「私は何も悪いことをしていません」
「まだ口答えする気?!」
電話の向こうで怒鳴り声が跳ねる。
「牧野結菜、誰のおかげで今の立場があると思ってるの! 本気でやれば、あなたなんか一文無しで追い出せるのよ。この業界で二度と生きていけなくしてやってもいいんだから!」
「どうぞ」
私は淡々と、三文字だけを落とした。
あまりにあっさりした返答に、福山彩子は一瞬言葉を失う。
やがて、吐き捨てるように叫んだ。
「覚えてなさい!」
そして乱暴に通話が切れた。
耳に残るツーツーという機械音を聞きながらも、心は驚くほど静かだった。
その日、私は待った。
けれど福山真司は帰ってこない。電話もない。
彼も、私が浮気したと決めつけたのだろう。
だからこそ、関わりたくもない。早く縁を切りたい。
夜が更け、そろそろ休もうと思ったとき、スマホの画面がふいに明るくなった。
着信――福山真司。
一瞬迷って、それでも出る。
「『ゴールドクラブ』まで来い」
酒の気を含んだ声。命令そのものだった。
「888号室」
返事を待つ気もないのか、そのまま一方的に切れる。
黒くなった画面を見つめ、私は自嘲気味に笑った。
ここまできても、私を呼べば飛んでくる運転手だと思っているのだろう。
電源を落としてしまおうかとも思った。
けれど、ふと考えが変わる。
……いい。
面と向かって終わらせれば、それで済む。
三十分後、私は車でゴールドクラブへ着いた。
888号室の前に立ち、ドアノブに手をかけた、そのとき。
隙間から笑い声が漏れてきた。
「真司、お前ほんと付き合い悪いよな。いつになったら愛未と正式に付き合うんだ? 俺ら、結婚式待ってんだけど」
男の軽口に、別の声がすぐ重なる。
「ほんとそれ! 愛未は美人で優しくて、しかも画家だろ? それに比べてお前の嫁は木みたいに無愛想だしさ。最近、裏切ったって話もマジなのか? そんな女、さっさと捨てちまえよ」
続いて聞こえたのは、村山愛未の甘ったるい声。程よく悲しげで、いかにも気遣っているふう。
「そんなこと言わないで……結菜さんだって、真司兄とは夫婦なんだもの……全部、私が悪いの。私が戻ってこなければ……」
私は息を止めた。
待った。
彼の口から、せめて一言でも――私の尊厳を守る言葉が出るのを。
だが返ってきたのは、福山真司の苛立たしげな鼻息だけ。
「……飲め」
たったそれだけ。
否定も、擁護もない。感情すらない。
まるで、そこで好き勝手に貶されている女が、自分とは無関係だとでも言うように。
私は深く息を吸い込み、胸に溜まった苦さを押し込めた。
無表情のまま個室のドアを押し開ける。
さっきまでの喧騒が、ぴたりと止んだ。
視線が一斉に突き刺さる。大声で笑っていた男たちは揃って気まずそうに目を逸らし、村山愛未は怯えた小動物みたいに肩を震わせ、反射的に福山真司の陰へ身を寄せた。目にはわざとらしい「恐怖」が浮かんでいる。
福山真司が酔った目を上げ、私だと認めた瞬間、端正な眉がきつく寄った。
視線は氷みたいに冷たい。
「遅い」
当然だと言わんばかりの口調。
私は周囲の目なんて気にせず、まっすぐ彼の前まで歩いた。
「迎えに来いって言ったのは、あなたでしょう」
「結菜さん、怒らないで……真司兄、飲みすぎてるだけだから……」
村山愛未が、善人ぶった声で割って入る。
福山真司はふらつきながら立ち上がった。
高い背が圧を落とす。だが彼は私に向かってくるのではなく、隣の村山愛未を指した。
「もう遅い。愛未は手もまだ治ってない。一人で帰らせるのは危ない」
そして命じる。
「お前が送っていけ」
空気が凍りついた。
私は彼を見た。
整っているのに、ひどく冷酷な顔。別の女を指し示す、その手。
なるほど。
深夜に酔ってわざわざ私を呼びつけたのは、自分を連れ帰らせるためじゃない。
愛しい女の送り迎えを、私にさせるためだ。
私は、ふっと笑った。
自嘲と諦めと、この三年分の屈辱が、ようやく出口を見つけたみたいな軽さが混じった笑み。
そして福山真司を見つめ、一言一言はっきりと言った。
「つまり私は、村山さんの送迎係として呼ばれたの?」
