第8章

田中浩一は高橋月見と電話でしばらく甘い言葉を交わした。

電話を切ると、すぐに高橋玲子の番号をダイヤルした。

「玲子、怒らないで。俺が好きなのはお前だけだ」田中浩一は内心うんざりしながらも、声は非常に優しく響かせた。

まだ自分を馬鹿にしているのね?

高橋玲子は嫌そうに口を尖らせたが何も言わなかった。どうせ田中浩一がまた何か企んでいるのを見てやろうと思っていた。

「外の男はみんな浅はかだ。俺だけがお前をどんなに醜くても受け入れる」田中浩一は情熱を装って言った。

「そう?電話をかけてきたのは、そんなことを言うためなの?」高橋玲子の声は冷淡だった。

彼女は田中浩一の甘い言葉を聞きながら、心の中では吐き気を覚えた。まるでハエを飲み込んだかのような不快感だった。

しかし高橋玲子は内心の嫌悪感を必死に抑え、このクズ男が早く本題に入ってくれることだけを願った。

「玲子、実は今回電話したのはお前にやってほしいことがあるんだ」田中浩一の声が一瞬途切れた。

こういう時、高橋玲子はいつも進んで手伝うと言っていたものだが、今は電話の向こうに沈黙があるだけだった。

仕方なく、田中浩一は渋々続けた。

「知ってると思うけど、数日後の歌手オーディションは月見にとってとても重要なんだ。もし優勝できれば、グラミー賞のノミネートにも役立つし」

高橋玲子は心の中で冷笑した。

田中浩一の厚顔無恥さには呆れる。彼女の機嫌も直していないのに、もう高橋月見のために利益を図ろうとしている。本当に厚かましい限りだ。

しかし高橋玲子にも自分なりの思惑があった。

「いいわ、引き受けるわ」高橋玲子は優しい声色で言ったが、その目の奥には気づかれにくい冷たさが宿っていた。

「ありがとう!こんな素晴らしい妻を娶れるなんて、俺は何て幸運なんだろう」田中浩一は喜びを抑えきれず、さらに甘い言葉で彼女をなだめた。

高橋玲子の目に嫌悪感が閃いた。以前の自分がこんな下手くそな言葉に騙されていたなんて。

この男は自分に実力がないくせに、名声と利益の両方を得ようとしている。ならは噓がばれたの結果を味わわせてやろう。

翌朝早く、高橋玲子は佐藤時夜の手配通りに、鈴木弘人のプライベートクリニックへ向かった。

このクリニックは一般には開放されておらず、設備はすべて世界最高峰のもので、患者も帝都の実業家や高官貴族ばかりだった。

顔に傷を抱えて入ってきた高橋玲子は、この場所に場違いな存在だった。

「いらっしゃいませ、ご予約はありますか?」受付は職業的な笑顔で、丁寧に高橋玲子の足を止めた。

「佐藤さんに手配していただいたのですが」高橋玲子は足を止めた。

「あ、高橋さんでしたか。こちらへどうぞ」受付の女性は熱心に高橋玲子を案内した。

この待遇、なかなか悪くない。

高橋玲子は受付の後ろについて、広々とした明るい廊下を通り、診察室へ向かった。

白衣を着て眼鏡をかけた端正な男性が座っており、彼は分厚いカルテを見ながら、顔も上げずに言った。「そこに座って」

鈴木弘人、この伝説の名医は意外に若く、ハンサムだった。

高橋玲子は落ち着いて座った。「鈴木先生、私は高橋玲子です。佐藤さんの手配で顔の傷の治療に来ました」

しかし言葉が終わるや否や、鈴木弘人は急に顔を上げ、カルテを置く間もなく彼女をじっと見つめた。

「あなたが高橋玲子?」

彼は彼女を上から下まで眺め、まるで珍しい動物を見るような目だった。

高橋玲子は不思議に思った。そこまで大げさな反応をする必要があるのだろうか?

もしかして佐藤甚平が彼らの一夜の関係を鈴木弘人に話したのだろうか?

まさか、あの男はこういう人なの?

高橋玲子は気まずさを感じながら、「何か問題でも?」と尋ねた。

鈴木弘人は口角を上げて無害な表情を浮かべた。「緊張しないで。時夜からあなたの状況は聞いています。こちらへどうぞ」

その後、彼の指示に従って、高橋玲子は一連の検査を受けた。

鈴木弘人は検査結果に目を通し、自信を持って言った。「あなたの傷はそれほど深刻ではありません。私の治療計画に従えば、一ヶ月以内に傷跡は完全に回復するでしょう」

これは佐藤時夜の周りに現れた唯一の女性だ。彼が手を抜くはずがなかった。

単なる顔の傷でも、通常は難病のみを扱う鈴木弘人が、今回は自ら出馬した。

「ありがとうございます」鈴木弘人の熱のこもった眼差しに、高橋玲子は警戒感を覚えた。

医者が熱狂するのは解剖のときだけだと聞いたことがある……

高橋玲子はぞっとして、急いでクリニックを後にした。もう少し遅れたら逃げられなくなるかもしれないと恐れたのだ。

鈴木弘人は口元に意味深な笑みを浮かべ、すぐに見覚えのある番号にダイヤルした。

電話が繋がると、向こうから冷たい声が聞こえた。「何」

「ちぇ、そんな冷たい態度じゃ、どうやって小娘を口説いたんだ?」鈴木弘人はからかわずにはいられなかった。

彼は佐藤時夜がずっと独身を貫くと思っていたのに、こんなに早く妻を見つけるとは。本当に世の中何が起こるか分からない。

「……」

「お前、やるじゃないか。どこでこんな娘を見つけてきた?顔に傷はあるけど、治れば間違いなく絶世の美女だぞ!」鈴木弘人は佐藤時夜が応答しようがしまいが、興奮して質問を続けた。

「勤務時間中にゴシップを話すほど暇なら、何試合か練習しに来るか?」

「いや結構です」今回は鈴木弘人が相手の返事を待たず、素早く電話を切った。

数年前、彼が佐藤時夜を怒らせたとき、格闘場で一方的に殴られ、丸二ヶ月もベッドから出られなかったことを思い出した。

それ以来、佐藤時夜が練習相手を求めると聞くと、仲間たちは夜中に飛行機に乗って逃げ出すようになった。

どうやら、彼も今から航空券を予約する必要がありそうだ。

……

高橋玲子は薬を持って家に帰り、まっすぐ自分の部屋へ向かった。

長年の仕事習慣で、家に帰って最初にすることはパソコンを開き、新しいメッセージや仕事の予定がないか確認することだった。

驚いたことに、メールボックスにはS+ドラマ制作チームからの招待状があり、ドラマのテーマソングを作ってほしいとの依頼だった。

高橋玲子は高橋家の長女であるだけでなく、匿名のネット歌手「アムネシア」としての顔も持っていた。

このアカウントは元々、いくつかの曲のインスピレーションを発表するために作ったものだったが、予想外に人気が出て、百万人のファンを集めていた。

しかし彼女は高橋月見の曲のために、ずっとこの活動を維持する時間がなかった。

だが今、このアカウントは彼女が逆転するチャンスになるかもしれない。

高橋玲子は約束通りカフェに到着した。

ドアを開けると、見慣れた姿が目に入った。

「佐藤さん?あなたもOPの録音に?」高橋玲子の目に疑問の色が浮かんだ。

「知らなかったの?これは私が主演するドラマなんだ。監督が急用で、私が代わりに来たんだ。気にしないでくれ」佐藤甚平は驚いた様子もなく、口元に穏やかな笑みを浮かべていた。

「構いませんよ」高橋玲子は微笑みながら頷いた。

彼女はこのドラマが佐藤甚平主演だとは知らなかった。

あまりにも偶然すぎる。

しかし佐藤家は彼女にたくさん助けてくれたし、目の前のこの人は将来の夫になる人だ。先に感情を育んでおいたほうがいいかもしれない。

そう考えながら、高橋玲子は佐藤甚平の隣の席に座り、優しい笑顔で彼を見つめた。

佐藤甚平は恐ろしくなり、急に立ち上がって高橋玲子の向かいの席に移動し、自分のコーヒーまで持っていった。

もし叔父が彼が未来の叔母と並んで座っていることを知ったら、銃で撃ち殺されるに違いない。

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