第9章
高橋玲子は驚いた。彼女はそんなに恐ろしい存在なのだろうか？佐藤甚平がこれほど遠くに逃げるとは？
結局、彼女は佐藤甚平が単に恥ずかしがり屋なのだと結論づけた。
でも、あの夜は情熱的だったのに、なぜ昼間の対面ではむしろ彼女より恥ずかしがっているのだろう？
佐藤甚平は一度咳払いをして、口を開いた。「本当に私たちの作品のスタイルに合った主題歌を作れるんですか？ご存知の通り、この作品は大作で、主題歌への要求も非常に高いんです」
彼の眼差しは温和に見えるが、まるで彼女を審査するかのようだった。
「あなたたちの作品のスタイルを教えていただければ、似たような曲を歌うことも、あるいはあなたが指定する曲を歌うこともできますよ」
事実は雄弁なり。彼女は自己証明したくなかったが、相手がスポンサーである以上、仕方ない。
「高橋さんの演奏を楽しみにしています」佐藤甚平は監督が用意した曲を取り出し、高橋玲子に試し歌いをさせた。
BGMが流れ始めると、高橋玲子は少し目を閉じ、赤い唇を軽く開いた。
澄んだ空気のような歌声が山の清流のように流れ出し、聴く者を幻想的な古風の絵巻の世界へと誘うようだった。
この曲を佐藤甚平は何度も聴いたことがあり、カバーも少なくなかったが、これはオリジナル歌手以外で初めて、彼を完全に歌声に引き込んだ歌い手だった。
歌が終わると、高橋玲子はゆっくりと目を開け、静かに佐藤甚平を見つめた。
「歌、上手いですね」佐藤甚平は感嘆し、目には賞賛の色が満ちていた。
彼はずっと高橋月見の歌が上手いことを知っていたが、高橋玲子がさらに上回るとは思ってもみなかった。
しかし、佐藤甚平は二人の声質の類似性が極めて高いと感じた。錯覚だろうか、それとも高橋家に共通する才能の遺伝なのだろうか。
「ありがとう」高橋玲子は冷静に受け止めた。「これで合格ということでしょうか？」
「もちろん、おめでとうございます」佐藤甚平は立ち上がり、紳士的な態度で手を差し伸べた。
高橋玲子は彼と短く握手をし、すぐに手を離した。礼儀正しくも距離を置いた態度だった。
「高橋家はすごいですね。あなたも、高橋月見さんも、歌がとても上手い」佐藤甚平は笑いながら言った。
「私の声が高橋月見に似ているということですね」高橋玲子は率直に言った。
彼女は回りくどい言い方が好きではなかった。佐藤甚平がそう言うなら、きっと自分と高橋月見の声の類似性に気づいたのだろう。それならはっきり言った方がいい。
「確かにそうですね。姉妹だからでしょうか？」佐藤甚平は好奇心を持って尋ねた。
「もしかしたら、あなたが聴いた高橋月見の歌、全部私が歌ったものかもしれませんよ？」高橋玲子は口元をわずかに上げた。
「マジですか？」佐藤甚平は半信半疑で高橋玲子を見た。
「数日後にオーディション番組がありますよね？」高橋玲子は眉を上げた。
真実か嘘か、生放送で明らかになるだろう。
「生放送を待たなくても、私が審査員として直接見に行きます」佐藤甚平は言った。
彼女が対処できないと心配して、手助けしようとしているのだろうか？
そう考えると、高橋玲子の佐藤甚平を見る目が輝きを帯びた。この数年間、彼こそが唯一彼女に手を差し伸べてくれた人だった。
「ありがとう。将来隠し婚することになっても、私は妻としての義務を果たします」
佐藤甚平は彼女が叔父に言っていると思った。「叔父に伝えておきます」
高橋玲子は不思議そうに彼を見た。彼の叔父と何の関係があるのだろう？
「あなたの叔父に知らせる必要はありません。あなただけ知っていればいいです」
この優しさと口調と眼差しに、佐藤甚平は鳥肌が立った。まさか叔母が浮気しようとしているのか？
高橋玲子が去った後、佐藤甚平はすぐに携帯を取り出し、佐藤時夜に電話をかけた。
「叔父さん！早く出てこないと、叔母さんが俺に惚れちゃいますよ！」
電話の向こうで、佐藤時夜は国際会議の最中だった。この電話がかかってきて、報告していた人は言葉に詰まり、会議室全体が静まり返った。
大変だ、彼らは佐藤家のスキャンダルを聞いてしまった。生き残る道はあるのだろうか？
佐藤時夜は冷たい表情で顔を上げ、会議室の人々をさっと見渡した。彼の視線が届いた場所では、皆が頭を下げ、何も聞こえなかったふりをしていた。
「最近暇なようだな？ちょうど真白市にいくつかプロジェクトがある。お前が担当しろ」
「やめてくださいよ！」佐藤甚平は顔をしかめた。
彼も知っていた。最近、いくつかの部署が真白市のプロジェクトで頭を悩ませており、作業量も膨大だった。彼はあそこに行きたくなかった。
「叔父さん、怒らないでください」佐藤甚平はおべっかを使って言った。「今度のオーディションはとても盛り上がりそうですよ。時間があれば、ゲストとして来ませんか？」
「お前の判断に任せる」佐藤時夜は言った。
「では真白市のプロジェクトは？」佐藤甚平はにやりと笑った。
「番組があるなら、プロジェクトは他の人に割り当てることを検討しよう」佐藤時夜はそう言って、電話を切った。
切れた電話を見ながら、佐藤甚平は思わずツッコミした 「むっつり」
しかし、真白市のプロジェクトは自分の担当にならずに済んだのは本当によかった。
彼には佐藤時夜が理解できなかった。明らかに高橋玲子のことを気にしているのに、それでも矜持を保って自分に任せるとは。
叔母が本当に心変わりしたら、後悔するのは彼だろう。
最終的に、高橋玲子は謎の歌手「アムネシア」としてオーディションに応募することにした。
すぐに審査員から返信が来た 「なんてこと！あなたがアムネシアさん！」
アムネシアというこの身分はネット上ですでに一定の人気を得ており、彼女の独特な歌声は多くのファンを魅了していた。
しかし常に匿名で、活動に参加することもなく、本当の身元を知る人もいなかった。
そこでオーディション担当者はすぐに高橋玲子に連絡を取り、歓迎と重視の意を示した。
高橋家に同居している以上、高橋玲子は田中浩一と高橋月見を見かけることを避けられず、それまでの良い気分は一瞬で消え去った。
「玲子、どこに行ってたの？オーディションの曲は準備できた？」田中浩一は偽りの関心を示した。
「準備はできてるわ」高橋玲子は心の中で冷笑しながらも、表情を変えずに答えた。
聞きたい答えを得た高橋月見の顔に喜色が満ちあふれた。
「浩一兄さん、急に体調が悪くなったの。病院に連れて行ってくれない？」高橋月見は田中浩一の腕にしがみつき、甘えた声で言った。
彼女は一刻も高橋玲子のあの傷のある醜い顔を見たくなかった。
「月見、どうしたの？すぐに病院に行こう」
高橋玲子は可笑しく感じた。田中浩一は非常に心配そうに見えたが、以前彼女に対する「具合が悪いなら病院に行け」という一言の対応とは、まさに天と地ほどの違いだった。
出かける前に、高橋月見はまだ挑発的に彼女を一瞥した。
一方、田中浩一は高橋月見のことだけに夢中で、高橋家を出ても自分に婚約者がいることを思い出せなかった。
この二人が去るのを見て、高橋玲子はむしろ安堵した。
しかし、以前の自分の真心が裏切られたことを思うと、高橋玲子はまだ気が収まらず、SNSに投稿した 「この二人は地獄に落ちろ！」
しばらくすると、この投稿は親友の水原雨音によって「いいね」された。
雨音 【ついに恋愛脳から回復したのね！】
玲子 【もちろん、昔の自己を引っ張り出して殴りたいくらいよ】
雨音 【おめでとう！あのクズ男は信用できないって前から言ってたのに、あなたが聞く耳持たなくて、本当にイライラしたわ】
玲子 【帰ってきたら美味しいもの奢るわ】
雨音 【美味しいじゃなくていいから、一番高いものがいい！】
玲子 【問題ないわ！】
雨音 【そういえば、最近も悪夢見てる？】
玲子 【最近は減ったかな……】
雨音 【海外で医療交流会に参加してた時、すごい大物に出会ってね、その人から多夢症の治療法を学んだの。帰ったら試してみましょう】
高橋玲子はよく奇妙で恐ろしい悪夢を見ていた。夢の中の光景はいつも現実のように恐ろしかった。
時々、彼女は謎の集団に追われる夢を見る。その人々は恐ろしい顔をして、暗闇の中で影のように彼女を追いかけてくる。
彼女は必死に逃げるが、振り切ることができない。
また、車に乗っていると突然衝突され、爆発する夢を見ることもある。その巨大な衝撃と炎は、夢の中でも絶望を感じさせた。
海で溺れるシーンもある。水が口や鼻に流れ込み、その窒息感は夢から覚めた後も心に残った。
高橋玲子は隠された地下室に入った。
この部屋にはさまざまな機械装置が置かれており、一部は非常に先進的に見えた。
高橋玲子自身も不思議に思っていた。彼女は記憶喪失で過去の多くのことを覚えていないのに、これらの装置の使い方は手慣れたものだった。
単純な機械から複雑精巧なプログラムまで、彼女が望めば作ることができた。
これは彼女の秘密で、幼なじみの水原雨音以外、誰も知らなかった。
そして、彼女の脳の奥底には、暗号と住所が刻まれているようだった。
それ以外に、彼女はそれに関連する何も思い出せなかった。
おそらく失われた記憶と関係があるのだろう。
高橋玲子は机に座り、音声データを修正した。
彼女は特別なプログラムを設定し、この音声が特定の条件で自動的に消去されるようにした。
