第1章

明日香視点

血の鉄臭さが、潮の香りと火薬の匂いに混じって、あたりに立ち込めていた。最後の死体を蹴り上げ、完全に息絶えていることを確認する。

「エリア確保。生存者なし」冷静な声で、インカムに報告した。

倉庫の外から、慌ただしい足音が響いてくる。

「ちくしょう!」私は素早く現場を見渡した。痕跡は残せない――

バンッという轟音と共に、金属製の扉が蹴破られた。戸口に現れたのは、政司だった。薄暗がりの中でも、まるで炎のように、彼の怒りが伝わってくる。

「一体、俺が何と伝えた!?」彼の声が、がらんとした倉庫に轟く。「俺の直接の命令なしに、単独行動はするなと!」

燃えるような黒い瞳を見返す。「状況が切迫していた。待てなかった――」

言い終わる前に、彼は大股で近づいてきて私の襟首を掴み、輸送コンテナに叩きつけた。冷たい金属がシャツ越しに肌へと食い込む。

「死ぬ気か!?」顔が触れそうなほど近く、熱い吐息が肌にかかる。「お前に何かあったら、俺がどうなるか分かってるのか? もし、お前を失ったら――」

彼は最後まで言わなかったが、その瞳には恐怖が浮かんでいた。私が自分の正体を忘れそうになるほどの、剥き出しの、本物の恐怖が。

「怪我がないか、確認させろ……」彼の声は掠れ、ごつごつした指が傷を探すように私の体に触れ始めた。

心臓が激しく鼓動する。戦闘のせいじゃない。彼の指先に、だ。クソみたいなアドレナリン、この張り詰めた空気、そして……この男のせいで。

「政司、俺は大丈夫だ……」押し返そうとしたが、彼の腕は鉄のように固かった。

彼の手が私の胸元に伸び、シャツのボタンにかけられる。「喋るな。見せろ……」

ダメだ!

戦闘で胸に巻いたサラシが緩んでいる。このままじゃ、真実が――バレる。

「クソッ、怜央……」震える声で彼が呟く。「お前を失うかと思った……」

シャツの襟元がはだけ、サラシの端が覗く。彼の手は、さらに下へと――

バレるわけにはいかない!

咄嗟に、私は彼の唇に自分のそれを重ね、彼の探るような手を止めた。政司は一瞬動きを止めたが、すぐにさらに激しい勢いで応えてきた。彼の手は私の胸から離れ、後頭部を支えてキスを深くする。

計画は成功したが、代償は私自身がこの感情に溺れることだった。舌が唇をこじ開け、口内の全てを蹂躙していく。服越しに伝わる、彼の体の熱い反応が分かる。

彼の手が彷徨い始め、優しく、それでいて所有欲を滲ませるように背中を撫でる。抑えきれずに漏れた小さな呻き声が、彼をさらに煽った。

「お前……怜央……」耳元で彼が喘ぐ。掠れた声だ。「俺をどんな気持ちにさせてるか、分かってんのか……?」

だが、理性が止めろと叫んでいた。私は喘ぐ胸のまま、力強く彼を突き放した。

「ここは安全じゃない……誰か来るかもしれない……」

彼の瞳の炎はさらに危険な色を増し、所有欲は薄れるどころか強まるばかりだった。

「クソッ、もう我慢できねぇ!」彼は再び体を寄せ、狂気的な飢えを宿した瞳で私を見つめる。「お前が必要なんだ、怜央。俺には――」

その顔を知っていた。彼がその表情を浮かべると、私はいつも拒めなくなる。この一年、数え切れないほど繰り返してきたように、私は手で……あるいは他の方法で、彼の渇望を満たすことになるのだろう。

「政司、よっせ……」私の声には、もう何の説得力もなかった。

だが、彼は聞かない。いつだって、聞きやしない。

―――

二十分後、私たちは黒のセダンで帰路についていた。窓に寄りかかって眠ったふりをしていたが、神経は糸のように張り詰めていた。

政司は、私を安心させると同時に恐怖させる、あの所有欲に満ちた力で私の手を握っていた。一年。怜央として彼の間近で生きて、丸一年が経った。彼の最も信頼する右腕となり、最も親密な……何だ?

私の本当の名前は有栖川明日香。有栖川組の唯一の生き残り。七年前、私の家族は正体不明の勢力によって壊滅させられた――一族の血は、一夜にして根絶やしにされたのだ。生き延びるため、『男』として生きる術を身につけ、この強大な極道一族の跡取りである黒崎政司の右腕となった。

だが、この非情な跡継ぎが、『男』である私に情を抱くとは予想もしていなかった。そして、私自身が彼に惹かれてしまうなんて、思いもしなかった……。

携帯の着信音が、混沌とした思考を打ち破った。政司は私の手を離し、電話に出る。

「今夜の件は片付いた……明日の婚約式には間に合わせる」

胸が締め付けられるように痛んだ。

伊織。彼が話している相手は、伊織だ。

「ああ、分かってる……俺も会いたい……」

その一言一言が、ナイフとなって胸に突き刺さる。そうだ。政司には婚約者がいる。明日は、その二人の婚約披露パーティーだ。所詮、彼は『男』と結婚することなどできないのだから。

自嘲の笑みが漏れる。それが、残酷な現実だった。

―――

さらに二十分後、車は瑞川大橋に差し掛かった。夕日が血のような赤色に滲み、都心の街全体を不吉な色に染め上げていた。

私が複雑な感情に溺れていた、その時。パァン、という乾いた音と共に、窓ガラスが弾け飛んだ。

「伏せろ!」政司は即座に私に覆いかぶさった。ガガガッ、と硬質な金属音を立てて車体に次々と銃弾が撃ち込まれる。

「クソッ、狙撃手か!」彼は銃を抜き、素早く状況を判断する。「エンジンがやられた。ここから出て、遮蔽物を探すぞ!」

脈が速まる。だが、それは恐怖からではなかった。

「俺の合図で、橋脚まで走るぞ!」政司が命じる。

私たちが車から飛び出す準備をした、ちょうどその時。遠くのビルの屋上に、人影を捉えた。

すべては、計画通り。

「今だ!」

私たちは同時に車のドアから飛び出した。政司が狙撃手の射線上に身を晒した瞬間、私は咄嗟の行動を装って――彼を突き飛ばした。

銃弾は、寸分の狂いもなく私の胸を貫いた。

「怜央! やめろ!」政司の絶叫が響き渡った。

白いシャツを赤く染めながら、私の体はゆっくりと橋の欄干へと倒れていく。瑞川の暗い水面へと落ちる最後の瞬間、私は彼の瞳に浮かんだ絶望を見た。

「さよなら……政司……」かすれる声で、そう呟いた。

そして私は、冷たい闇の中へと落ちていった。

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