第2章
その言葉が、私の怒りに完全に火をつけた。
結婚は、私への恩恵だとでもいうのだろうか? 彼の目には、私はそこまで卑しい存在に映っているというのか?
反論しようとしたその時、腹部に激しい痛みが走った。
顔面は蒼白になり、全身から冷や汗が吹き出し、私は無意識に腹を押さえた。
妊娠してから今まで、初めて赤ちゃんの胎動を感じた。微かだけれど、はっきりと。本来なら喜びに満ちるべき瞬間が、これほどの激痛と心の痛みと共に訪れるなんて。
赤ちゃん、これがあなたの初めての胎動なのね。
どうして、よりにもよってこんな時に……。
唇を噛み締めると、涙が再び溢れ出してきた。
高橋奏は慌てた様子で近づき、私を支えようと手を伸ばす。
「触らないで、汚らわしい」
私は高橋奏の差し伸べた手を断固として拒絶し、もがきながら自力で立ち上がった。
彼の瞳には複雑な感情が入り混じり、声はほとんど聞こえないほど低い。
「君と別れるなんて、考えたこともない。本当だ」
私は顔を上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。
「結婚式は中止。そして、離婚します」
自分でも驚くほど固い決意のこもった声で、私は一言一言、はっきりと告げた。
高橋奏の表情が凍りつく。私がここまで直接的に切り出すとは、予想だにしていなかったようだ。
彼はしばらく沈黙し、やがて私の腹に視線を落とした。
「君自身、母子家庭で育っただろう。妊娠五ヶ月の君が離婚することに、笹原のお義母さんが同意するとでも?」
まさか彼がそんな言葉で私を刺してくるとは、思ってもみなかった。
それが私の生い立ちにおける、誰にも触れさせない、言わせない傷跡だと、彼は知らないはずがないのに。よりにもよってこのタイミングで、彼はそれを口にした。
心が千々に切り裂かれるような痛みの中、私は一気に崩れ落ちて泣き叫んだ。
「出てって! どこか遠くへ行って!」
「少し冷静になったら、また話そう」
私がいくらか落ち着いた頃には、控室には私一人だけが残されていた。
高橋奏がいつここを去ったのか、私には分からなかった。
翌日、私は簡単な荷物だけを持って、旧市街にある母の小さなアパートへ戻った。
春の日差しが窓辺に降り注いでいるというのに、私の心の中の影を払うことはできない。
母は父と別れ、女手一つで私を育ててくれた。あまりに苦労してきたからこそ、私の気持ちに共感することができないのだ。
高橋奏が私を迎えに来た時、母は昼食の準備をしていた。
私の赤く腫れた目を見るなり、母はため息をつく。
「高橋君がもう折れてくれているんだから、あなたもそれに乗じて帰りなさい。結婚なんて、忍の一字で丸く収まるものなのよ」
「耐えられないわ、お母さん。この悔しさだけはどうしても飲み込めない」
私は食卓の椅子に座り、声を詰まらせた。
母の手が止まる。彼女は私の方へ向き直り、その目には不安が満ちていた。
「何があっても、離婚だけはダメ! 日本でシングルマザーがどれだけ大変か、分かってるの?」
私が黙り込むと、母の声はますます昂っていく。
「結局、あなたに至らない点があるからじゃないの? あなたが何から何まで完璧だったら、高橋君が元カノのことなんか気にするわけないでしょう?」
「悪いのは彼なのに、どうして私が至らないって責められるの!」
私は叫ぶように反論し、涙が堰を切ったように溢れ出した。
「どうして私が我慢しなきゃいけないの? それならお母さんと同じように、シングルマザーになって子供を育てる方がましよ!」
母は力いっぱい私の頬を叩いた。乾いた音が、狭いアパートに響き渡る。
頬を押さえながら、私は母に叩かれたことが信じられなかった。
母の手は震え、その目には涙が浮かんでいる。
「私がこんな風になりたかったとでも思うの?」
母の声も震えていた。
「私がこれまでどれだけ白い目で見られてきたか、知ってる? 近所の人たちが陰で私たち母子のことをなんて噂してるか。あなたの同級生の親たちが、あなたのことをどう見ていたか」
彼女は深く息を吸った。
「あなたにだけは、私の二の舞を演じてほしくないの。詩織、女が夫もなしに子供を抱えて生きていくことがどれだけ大変か、あなたには想像もつかないのよ」
「だからって、私が悔しい思いをしろって言うの? 彼が私を愛してないって分かってるのに、それでも一生を共にしろって?」
「そんなの一時的なものよ」
母の最後の一言が、ナイフのように私の心臓に突き刺さった。
もう母を説得することは不可能だと、私はようやく悟った。
ドアが開き、高橋奏が入ってきた。彼は申し訳なさそうな顔で、母に深々と頭を下げる。
「笹原さん、すみません。俺が詩織を悲しませてしまいました」
彼はそう言うと、自分のスマホを私に差し出した。
「詩織、見てくれ。俺と星野は、本当に何もないんだ」
彼はLINEとTwitterを開き、星野月とのやり取りが一切ないことを見せる。それから同級生のLINEグループを開き、当時の記録を探し出した。
「これが、俺が結婚を発表した時のやり取りだ」
グループの記録は簡潔だった。高橋奏が結婚することを告げ、皆に結婚式への参加を呼びかけている。
同級生たちが続々と祝福のメッセージを送っていた。
誰かが尋ねる。
『星野月からは俺たちに連絡ないけど?』
高橋奏が返信する。『結婚するのは彼女じゃない』
グループはしばらく沈黙に包まれた。
五分後、星野月が彼に返信していた。
『おめでとう。あなたの結婚式なら、絶対に行くね』
高橋奏の返信がそれに続く。
『ああ』
見たところ、本当に何もないように思える。
だが、本当に何もないのだろうか?
結婚式当日、星野月が白いドレスを着ていた時、彼女を新婦と勘違いして新婚おめでとうと祝福する人までいた。誓いの言葉の時、高橋奏は声を詰まらせ、私の親友の凛子は、高橋君は本当に情が深いのね、私と結婚できてきっと感動してるんだわ、とからかってきた。
笑わせてくれる。あれが私のせいであるはずがない。
あれは、星野月が理由だったのに。
彼の説明を聞き終えた母は、私の方を向き、厳しい口調で言った。
「見たでしょう? 高橋君は本気であなたのことを思ってくれてるの。あなたはもうすぐ母親になるんだから、これ以上わがままを言うのはやめなさい」
彼女は私の肩を押した。
「早く高橋君と家に帰りなさい。生まれてくる子に父親がいないなんてこと、させないで」
私は母に家を追い出された。
帰りの車中、私たちは一言も口を利かず、車内は気まずい空気に満ちていた。
家に着いても、まだ話したいことは何もなかった。疲労困憊で部屋に戻ると、高橋奏が後ろからついてきた。
「詩織」
だがその時、彼のスマホが突然鳴り響いた。
田中からだった。
「何? 病院にいる?」「リストカット? 中央病院か? 分かった」
高橋奏の声が急に大きくなる。
電話を切ると、彼はすぐにジャケットを手に取り、出かけようとした。
まだ離婚もしていないのに、彼はもう他の女のために駆けつけようとしている。
私はドアの前に立ち、彼の行く手を塞いだ。
「行かせない」
高橋奏の表情がこわばり、声が低くなる。
「詩織、昔の君なら俺の立場を理解してくれたはずだ……」
彼は一度言葉を切り
「彼女は今、病院にいる。生死に関わることなんだ。君の機嫌に付き合ってる暇はない」
私は下唇を噛み締める。胸のうちに、今までにないほどの怒りが込み上げてきた。
「なら出て行けば! 何のために私を連れ戻したの? あなたたちの愛の営みでも見物させるため?」
彼が慌ただしく去っていく背中がエレベーターのドアの向こうに消えた時、私たちの結婚も終わりを迎えたのだと悟った。
