第3章
今夜の食卓には、母さんの愛情が詰まったロースト野菜のレインボーサラダが輝いていた。色とりどりの有機野菜が広がるテーブルは、まるで葵川市のファーマーズマーケットから切り取られた一角のようだ。ハーブとレモンの香りが部屋を満たし、この上なく穏やかな家族の夕食になるはずだった。
私はお皿の上の焼きナスを機械的に切り分けながら、向かいに座る悟を見ないように、必死に努めた。
だけど、視界の隅には彼の存在が嫌でも入ってくる。肘まで無造作にまくり上げられたグレーのシャツ。そこから覗く腕には、昨夜私がつけた、うっすらとした引っ掻き傷が残っていた。
「舞、今日なんだか顔色が悪いわよ。昨夜、ちゃんと眠れなかったの?」母さんがフォークを置き、心配そうに私を見つめる。
「大丈夫」私の声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
父親の健一が口元を拭い、唐突に切り出した。「そういえば、お前たち知ってるか?角のコーヒーショップの息子の智也くん、先週結婚したんだってさ。美術センターで親父さんに会ったら、もう大喜びで。やっと孫の顔が見れるって言ってたぞ」
「あら、智也くんが結婚?」母さんの目が輝く。「まだ二十四歳じゃないかしら?最近の子は結婚が早いのね」
健一は頷き、それから父親特有の、あの期待のこもった眼差しで悟を見た。「それで言うと、悟ももう二十五だ。そろそろ彼女の一人でも考えないとな」
私はフォークを落としそうになった。
「そうよ」母さんも楽しそうに会話に加わる。「悟、好きな人とかいないの?」
「いるよ」
悟の声は、はっきりと、きっぱりとしていた。
私は凍りついた。
「本当!?」母さんが嬉しそうに手を叩く。「誰?私たちの知ってる子?」
私は無理やり顔を上げて悟を見た。すると、彼は私をまっすぐに見つめていた。その深い茶色の瞳には、優しくも危険な、読み解くことのできない感情が宿っていた。
「好きな人は、いる」彼は声を低くして繰り返した。「それに……みんなも会ったことがある人だ」
カシャン!
フォークが鋭い音を立てて皿の上に落ちた。みんなの視線が私に集まる。
「どうしたの、舞?」母さんが心配そうに訊ねる。
「なんでも……なんでもない」私はフォークを拾い上げたが、指先が微かに震えていた。「それって……優奈ちゃん?」
その名前は、胸から絞り出すようにして出てきた。悟の視線がさらに鋭くなるのが分かったけれど、彼は否定しなかった。
「優奈ちゃん?」健一が眉をひそめる。「あのベーシストの友達か?」
「まあ、そんなところ……」悟の口調には含みがあった。「すごく特別な子で、このすぐ近くに住んでる。それに……俺にとって、すごく大切な人なんだ」
『俺にとって、すごく大切な人なんだ』
その言葉は、心臓をナイフでまっすぐに突き刺されたようだった。世界がぐるぐると回り、ロースト野菜の匂いが吐き気を催させた。
「それは素敵じゃない!」母さんは満面の笑みだ。「いつ夕食に連れてきてくれるの?うちの悟の心を射止めたお嬢さんに、ぜひ会ってみたいわ」
「……たぶん、近いうちに」悟の目は、私から離れない。「ただ、事情が少し、複雑でね」
もう、そこに座ってはいられなかった。
「私……もうお腹いっぱい」椅子を倒しそうになりながら、唐突に立ち上がる。「台所で片付けしてるね」
「舞、ほとんど食べてないじゃない……」
「本当に、食欲なくって」
私はキッチンへ逃げるように向かい、シンクに寄りかかって息を整えた。手のひらは汗でじっとりとして、めまいがした。
『悟は、優奈ちゃんが好きなんだ。本当に、優奈ちゃんが』
あの綺麗なベーシスト。パーティーで、彼とあんなに親密に仕事をしていた女の子。悟のギターバッグについていたヘアゴムのこと、優奈が彼のスマホに送ってきた思わせぶりなメッセージのことを思い出す。
『一体、何を期待してたっていうの?馬鹿舞!私たちは兄妹、血の繋がった兄妹じゃない!』
気を紛らわせようと、機械的に皿を洗い始める。冷たい水が指先を流れ、胸の中で燃え盛るこの炎を冷やしてくれればいいのに、と願った。
「手伝おうか?」
背後から悟の声がした。私は振り向かず、すでに綺麗になっている皿を洗い続けることに集中した。
「ううん、大丈夫」
彼は歩み寄って私の隣に立ち、私が洗った皿を布巾で拭き始めた。私たちは並んで立ち、時折彼の腕が私の腕に触れる。その度に、電気が走ったような衝撃が体を貫いた。
「舞」彼の声は柔らかかった。
「何?」私はまだ、彼を見る勇気が出なかった。
「本気で、俺が優奈の話をしてると思った?」
彼は不意にぐっと顔を寄せ、その温かい息が私の耳にかかった。私の手は震え、皿が滑り落ちそうになる。
「わ.......私……あなたが何を言ってるのか分からない」
「本当か?」彼の手が私の手を覆い、もう十回は洗った皿をそれ以上洗うのをやめさせた。「じゃあ、なんでそんなに手が震えてるんだ?」
私はようやく彼の方を向いた。自分が彼とシンクの間に閉じ込められていることに気づく。この距離は近すぎる。彼のまつ毛についた水滴が見えるほど、彼の肌から香る微かなコロンの匂いが分かるほど、近すぎた。
「舞、俺が仕事仲間に対して『すごく大切な人だ』なんて言うと思うか?」彼の手が優しく私の頬を撫でる。「物事っていうのは、見た目より複雑なもんなんだよ」
「やめて」私は声を詰まらせながら彼を押しやった。「あなたの恋愛事情なんて知りたくない。それが優奈ちゃんでも、他の誰かでも、私には関係ないことだから」
「本当に関係ないか?」彼は一歩下がったが、その視線は私から離れない。「じゃあ、昨日の夜のことは……」
「昨日の夜は何もなかった!」私は叫びそうになり、すぐに声が大きすぎたことに気づいて声を潜めた。「何もなかったの。二人とも酔ってた、それだけ」
悟は長い間私を見つめ、やがて頷いた。
「分かったよ。お前がそう信じたいなら、それでいい」彼の口調は、突然冷たくなった。「でもな、舞。逃げても何も解決しないぞ」
そう言い残して、彼はキッチンから出て行った。残された私は、一人で震えていた。
リビングルームからは笑い声が聞こえてくる。三人で、母さんがまだ悟の謎の彼女について楽しそうに話しているのだろう。その笑い声が私の鼓膜を突き刺し、一つ一つの音が自分の愚かさを突きつけてくるようだった。
『ここから、出なきゃ』
その考えが、ふと頭をよぎった。このままじゃいられない。こんな痛々しい自己欺瞞の中で生き続けることなんてできない。この場所を完全に離れて、悟から離れて、この息が詰まるような感情から離れる必要がある。
その夜の十時、家がようやく静まり返った頃、私はノートパソコンを開き、東海岸の大学院プログラムを探し始めた。葵大学の創作文学修士課程、葵大学の英文学、桜川大学のジャーナリズム……。
『遠ければ遠いほど、いい』
私は出願ページをクリックし、キーボードの上で指を飛ばした。自己推薦文には何を書けばいい?
『義理の兄に恋してしまった事実から逃げ出すためです』?まさか。もっともらしい理由をでっち上げなければ。
私は夜遅くまで、ひたすらフォームを埋め続けた。最初の願書を提出し終えた時、いつの間にか涙で視界が滲んでいたことに気づいた。
『ごめんね、悟。これが、唯一の方法なの』
パソコンを閉じ、ベッドに横になって天井を見つめる。外では、葵川市の明かりがまだ煌めいている。夜遅くまで続く音楽や笑い声が、世界はまだ回り続けているのだと私に告げていた――ただ私だけが、この苦しい瞬間に囚われ、抜け出せずにいるのだ。
明日、他の大学にも連絡を取って、できるだけ早く全ての願書を仕上げよう。三ヶ月後には、ここを出られる。
こんなにも自分らしくいられなくなるこの場所を、離れる。
悟を、離れる。
その方が、みんなにとって良いことなのだ。
そう自分に言い聞かせたけれど、涙はそれでも止まってはくれなかった。
