第2章

彩香視点

エレベーターのドアが開く。これが最後のカードキーだ。三十七階。ガラスのドアには金色の文字で「株式会社テクノバ」とある。朝日を浴びて輝いている。ドアノブにかけた指が、一瞬だけ止まる。十年。このドアを押して開けるのも、これで最後だ。

大和は黒い革張りの椅子に座り、目の前には退職届が広げられている。何日も眠っていないような顔つきだった。シャツには皺が寄り、襟元は開けっ放しで、目は充血している。机のアッシュトレイは吸い殻で山盛りだ。彼の背後には、床から天井まである窓一面に青海市のスカイラインが広がり、朝霧の向こうに青海タワーがかろうじて見えた。

彼が顔を上げる。声はひどく嗄れていた。「本当に、決めたの?」

「ええ」

沈黙。彼はしばらく私をじっと見つめ、指でデスクをトントンと叩いていた。

不意に彼は立ち上がった。「彩香、俺がこの二十年間で下してきた重要な決断には……」

そこで言葉を切る。深く息を吸い、指でこめかみをもんだ。

その声は冷え切っていた。「……もういい。とっととサインして出ていけ」

私はペンを手に取った。書類は三枚。一枚一枚に、丁寧かつ、揺るぎない筆跡で署名していく。静まり返ったオフィスに、ペンが紙の上を走る音だけが響く。大和は窓の方を向いたまま、背中を向け、その肩はこわばっていた。

自分のデスクの引き出しを開け、小さな段ボール箱を取り出す。中に入っているのは三つだけ。五年間、枯らさずに育ててきた多肉植物。水をやり忘れるせいで、葉は少し萎びている。十六歳の頃、緑川町の赤レンガの建物の前で撮った、私たち二人の写真。そして、真夜中の電話や緊急事態のタイムスタンプで埋まった一冊のノート。

このオフィスを最後にもう一度見回す。十年座り続けた椅子。止まることなく稼働し続けるコーヒーメーカー。付箋で埋め尽くされた壁。

「さようなら、大和」と、私は静かに言った。

彼は振り向かなかった。

エレベーターが下降していく。37……30……20……10。階を下るごとに、少しずつ肩の荷が下りていく。一階でドアが開くと、ロビーのガラス窓から太陽の光が差し込んできた。

太陽の光が痛くないのは、これが初めてだった。呼吸が楽になったのも。携帯が鳴るのを心配しなくていいのも。

古いセダンに乗り込む。大和はいつも、もっといい車に買い替えろと言っていたけれど、私は気にしなかった。今、この車が私を青海市から遠ざけていく。彼から、遠ざけていく。

超高層ビルが郊外になり、森へと変わっていく。コンクリートと鉄が木造の家になり、土の道になる。チェーンのコーヒーショップは姿を消し、がらんとした高速道路が続く。やがて、それが見えた。「緑川町へようこそ 人口4,832人」

最後に戻ってきたのは三年前、園田先生の七十歳の誕生日の時だった。一日だけ滞在して、慌ただしく帰った。大和に投資家との会議があったからだ。彼には私が必要だった。今はもう、誰も私を必要としていない。いや、むしろ、そんなふうに必要とされる必要がなくなったのだ。

メインストリートは昔のままだった。食料品店、金物屋、あの古い食堂。午後の陽が、ほとんど人通りのない通りに斜めに差し込んでいる。空気は松と土の匂いがした。

赤レンガの建物は変わっていなかった。入り口のそばにある樫の木はさらに大きくなり、その幹には数えきれないほどの子供たちの名前が刻まれている。ブランコが風に吹かれて、静かにきしんでいた。

正面のドアを押して開ける。チリン、とベルが鳴った。受付には見慣れない女の子が座っていた。二十代前半くらいだろうか、茶髪のポニーテールで、「緑川町スタッフ」と書かれたパーカーを着ている。

彼女が顔を上げ、目を丸くする。「うそ! 彩香さん、ですよね!?」

「どうして……」

「園田先生が写真を! 執務室に飾ってるんです! 先生、いつも言ってますよ、彩香さんと大和さんはここから出た子たちの中で一番の成功者だって!」

「先生は、いらっしゃいますか?」

彼女の表情が曇る。「桜峰市なんです。県の助成金会議で。三日は戻らないって」

間。彼女は首をかしげ、温かい笑みを浮かべた。「でも、私でよければ! 子供たちに会いに来たんですか?」

私はためらい、バッグのストラップを握りしめた。「実は……しばらくここに滞在して、子供たちのお手伝いをしたいんです。自分の……進むべき道を見つけたくて」

口に出してみると、自分が馬鹿らしく思えた。二十九歳にもなって、青海市から逃げるように孤児院に戻ってきて、進むべき道を見つけたい、だなんて。

けれど、彼女の目は輝いた。「いいですね! 今、すっごく人手不足なんです! 東棟は改装中だし、カウンセラーの隆司さん一人じゃ手が回らなくて。ここで待っててください、お部屋、用意してきます!」

彼女はポニーテールを揺らしながら、弾むように階段を駆け上がっていった。

私は一人、ロビーに立ち尽くした。壁には子供たちの絵が飾られている。クレヨンで描かれたぐにゃぐにゃの線、そして「おうち」と書かれた歪んだ文字。掲示板には活動スケジュールの紙がピンで留められていた。隆司の名前が、毎日、どの予定にも載っている。空気は消毒液と子供たちの匂いに、何か料理の匂いが混じり合っていた。

翌朝、プレイルームは太陽の光で満ちていた。七人の子供たちが輪になって座っている。年齢は六歳から十一歳まで。色画用紙、糊、ハサミがそこら中に散らばっていた。

茶色い髪をした七歳の恵茉は、静かに紙を切っていたが、ハサミの持ち方がおかしい。指が刃に近すぎる。十歳の翔太は隅でブロックを組み立てながら、時折ちらりと私を見ている。八歳の健は、積み木のおもちゃの箱を抱きしめて壁にもたれていた。

私は別の子の隣にかがみ込み、糊付けを手伝っていた。「上手よ! そうそう、ゆっくり……」

視界の隅で、恵茉の指が刃の方へ滑っていくのが見えた。

「やめろ」

ドアの向こうから、冷たい男の声がした。

逆光の中に、背の高い人影が立っている。彼が入ってくるのを見上げると、身長は百九十センチ近くありそうで、黒髪はくしゃくしゃだ。灰色がかった青い瞳。黒いシャツの袖は肘までまくり上げられている。その全身から、冷ややかな空気が漂っていた。

彼は大股で恵茉の元へ歩み寄ると、かがみ込み、その声は不意に優しくなった。「恵茉ちゃん。俺が教えたこと、覚えてるか? 親指はここに……」

彼は少女の指の位置を丁寧に直してやる。「そうそう。いい子だ」

恵茉がくすくす笑う。

それから彼は立ち上がり、私の方を向いた。優しさは消え失せていた。

「刃物を持った子供を監督する方法も知らないなら、工作の時間なんか担当すべきじゃない」

私は凍りつき、そして眉をひそめた。「ほんの一瞬、気づかなかっただけです。恵茉ちゃんは大丈夫です」

「今回はな」彼は私の言葉を遮った。「次はどうだ?」

彼は一歩近づき、私を見下ろした。「この子たちには、集中したケアが必要なんだ。中途半端な監督じゃない」

私は立ち上がり、彼の目を見据えた。「中途半端になんてしていません。他の子を手伝っていたんです」

彼の視線が私の服をなめるように見た。カーディガン。パンツ。シンプルだが、高価な生地だ。

「あんたはここにいるべきじゃない」彼の口調は辛辣だった。「ここは金持ちが罪悪感を癒すためのリゾートじゃないんだ」

頰に熱が昇る。「私の何を知ってるって言うんですか」

「十分知ってるさ」彼の声は厳しくなる。「遊びごっこをしたい都会のお嬢さんだろ。二週間も滞在して、写真を撮って、帰ったら友達にボランティアしてきたって自慢するんだ」

彼は一歩下がり、腕を組んだ。「生きがいが欲しいなら、その大都会に帰れ。ここにはあんたが望むことはない。この子たちにあんたの偽善は必要ない」

私の手は拳を握りしめていた。喉が締め付けられる。目がじんわりと熱くなるが、泣くものかと思った。

彼は背を向けて去ろうとする。

「私のことも知らないくせに、そんなふうに決めつけるんですか?」

彼は立ち止まる。振り返る。冷たい目。「知る必要もない。あんたみたいな人間は、もううんざりするほど見てきた」

彼はそう言って部屋を出ていき、ドアを強く閉めた。

七人の子供たちが、黙ってその様子を見ていた。翔太はブロックをさらにきつく抱きしめる。健は壁際でさらに身を縮こまらせた。

恵茉がそっと歩み寄り、私の袖を引いた。「彩香先生、心配しないで。隆司先生は、新しい人にはいつもこうなんだ。ただ、私たちを守ろうとしてるだけなの」

守る? 私みたいな人間から? 私だって、ここで育ったのに。この廊下で泣いて、怖がって、愛されたいと願ったのに。でも彼の私を見る目は、まるで大和が取るに足らない人間を見る時のようだった。まるで私が存在しないかのように。ここにいるべきではない、とでも言うように。

夕食後、あのスタッフの女の子が清潔なシーツとタオルを持ってきた。彼女は同情的な目で私のベッドに腰掛ける。「隆司さんのこと、気にしないでください。本当はすごくいい人なんです。ただ……ちょっと過保護で」

「どうしてあんなに敵意を向けるんでしょう?」

彼女は肩をすくめた。「たぶん、すごく……お金持ちに見えるから?」。彼女は言葉を止める。「隆司さん、短期でボランティアに来て、写真を撮って、すぐいなくなる人が嫌いなんです。去年、SNSで有名な人が三日間だけ来て、写真をたくさん投稿して、それっきり。子供たちがずっと、あのお姉ちゃんはいつ帰ってくるのって聞き続けて。隆司さん、すごく怒ってました」

彼女が去った後、私は狭いベッドに横たわった。マットレスは少しへこみ、スプリングがきしむ。青海市のキングサイズベッドよりずっと小さいけれど、なぜか心地よかった。

真夜中の電話はない。緊急事態もない。今すぐ来いと命じる大和の声もない。

窓の外から子供たちの笑い声が聞こえ、それから低い男の声がした。

「……そして竜は気づいた。お姫様は助けなど必要としていなかったのだと。彼女は、自分で自分を救うことが完璧にできたのだ」

子供たちがくすくす笑う。

恵茉の声がする。「もう一個! お願い!」

「わかった、もう一つだけだ。でもそしたら寝るんだぞ、いいな?」

子供たちが声をそろえる。「はーい!」

私は立ち上がって窓辺へ歩いた。薄いカーテン越しに、向かいの建物の明かりが見える。隆司のシルエットが窓のそばを動き、子供たちに囲まれていた。

彼は子供たちに、寝る前のお話をしていた。さっき私にあれほど辛辣だった男の声には今、優しさしかなかった。

私はベッドに戻って横になる。隆司がハミングを始めた。子守唄のような、低いメロディー。

目を閉じる。その声が夜を貫き、私の胸に突き刺さる。

外は、緑川町の静かな夜。聞こえるのは彼の声と、次第に穏やかになっていく子供たちの寝息だけだった。

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