第1章 許してやらない!
「出ていくなら、さっさと出ていきなさいよ。そんな死人みたいな顔、誰に見せてるの? この何年、うちの池田家があんたにどれだけ金を使ったと思ってるの。吐き出させないだけありがたいと思いなさい。それで花依の婚約者にまで色目を使って……ぺっ! 恩知らず!」
階下の宴会場ではグラスが鳴り、笑い声が入り混じっていた。
その喧騒から切り離された二階で、池田夫人は池田暁月の鼻先を指さし、容赦なく罵声を浴びせる。
池田暁月は黙ったまま、自分の私物を淡々とスーツケースへ詰め込んだ。
「もういい!」
池田当主――池田健永が複雑な目をして、低く言い放つ。
「さっきの件は誤解だ。暁月はそんな人間じゃない」
二十年育てた娘だ。彼の中には、彼なりの秤がある。
池田健永はカードを一枚取り出して差し出した。
「それでも出ていくと言うなら、引き留めはしない。ここに200万入ってる。聞くところによると、実家の暮らしは厳しいらしい。兄も三人いて、まだ独り身なんだろ。急場の足しにしなさい」
暁月はそのカードを見つめ、受け取らなかった。
池田家の人間にどれほど踏みにじられても、陰から池田グループへ資金を回す手を引かなかったのは、ただ――池田健永に残っていた、最後の情だけを気にしていたから。
だが、いまそれも尽きた。
養ってもらった?
暁月は鼻で笑う。自分が裏で支えていなければ、池田家はとっくに自分たちの暮らしすら立ち行かなかったはずだ。
「ありがとうございます、池田さん。でも結構です」
その一言は、池田家との縁をきっぱり切る宣言に等しかった。
そもそも、この手の因縁はありふれている。病院で取り違えが起き、真の令嬢――池田花依が戻ってきた。
本来なら入れ替わって終わり。それなのに池田健永が暁月を手放したがらず、無理に引き留めた。――それが、花依の不満に火をつけた。彼女は手を尽くして暁月を弄び、貶めてきたのだ。
「お姉ちゃん。急に贅沢な暮らしがなくなって、あんな田舎に行くの、つらいよね。でも実のご両親の家って、すごく貧しいんでしょ? 草屋根みたいな家に住んでて、治安も悪いって……お金はあったほうが何かと助かるよ。受け取って」
花依は気遣うように、柔らかく言った。
そして、思い出したように付け足す。
「そういえば、お姉ちゃんの実のお父さんって足が悪いんだって。お母さんは賭け事が好きで……」
ふう、とため息。
「本当はね、お姉ちゃんが謝って、パパとママに土下座して許してもらえたら……別に出ていかなくても――」
「出ていかせるに決まってる!」
池田夫人が花依の言葉を遮った。
「取り違え? そんなの関係ないわ。あの貧乏親がわざとやったに決まってる! 骨の髄まで腐ってるのよ、うちじゃ養わない! 支度は済んだ? ほら、さっさと!」
暁月は池田健永に軽く会釈し、スーツケースを閉めた。
背筋の伸びた後ろ姿は迷いがなく、やけに潔い。
宴会場は、わざわざ避けた。
「お姉ちゃん!」
背後から花依が追いかけてくる。甘い笑みを貼りつけて。
「今日は私と水原廷悟兄さんの婚約の日なの。さっき、お姉ちゃんが廷悟兄さんを誘惑したって騒ぎになったけど……それでも、私たちの門出を祝って、一杯くらい飲んでほしいな」
挑発が目に浮かぶ。暁月が黙っていると、花依はわざとらしく眉を下げた。
「もしかして……廷悟兄さんに捨てられて、私に乗り換えられたのが悔しくて、祝福したくないの?」
「池田花依」
暁月が呼び止める。冷えた唇の端が、ふっと持ち上がった。
ゆっくりと距離を詰め、囁くように言う。
「私が本気で水原廷悟を誘惑するつもりだったら、あんたがここで吠える暇なんてあると思う? 私が捨てたゴミを拾って、そんなに得意?」
池田家と水原家は、名門の中では底のほうだ。勢力を広げるために政略の縁談を選んだだけ。
水原廷悟はここ二年、執拗に暁月を追い回してきた。だが暁月は、あの男がろくでもないと知っていたから断り続けた。廷悟は一度、逆上しかけたほどだ。
半年ほど前、花依が「本物の令嬢」として戻ってくると、廷悟は即座に「花依に一目惚れした」と言い出した。暁月への接近は「仕方なく」だった、と。
挙げ句、暁月が自分にしつこく縋ったなどと噂まで流す。今日の宴でも「暁月が誘惑した」と騒ぎ、名誉を潰して追い出させる算段だった。
暁月が彼らの思惑を知らないわけがない。
けれど彼女も――感情のないこの家に、もううんざりしていた。
「……っ!」
花依は顔を真っ赤にして歯を食いしばる。二十年の人生を盗んだ泥棒。許せない。なのに目の前で堂々としている――それが耐えられない。
怒りが噴き出しそうになった、その瞬間。
こちらへ歩いてくる池田夫人の姿が視界に入った。花依は表情を変え、いきなり暁月の手を掴んで叫んだ。
そして――自分から階段へ転がり落ちた。
「あああ――!」
「花依!」
池田夫人は駆け寄り、傷を確かめるや否や暁月へ噛みつく。
「この毒女! 誰がうちの娘に手を出せって言ったの! 誰か! 警察よ! 今すぐ!」
物音を聞いて池田健永も駆けつけた。
「何があった?」
花依は涙を溜めて首を振る。
「通報しないで、パパ……ママ……お姉ちゃんが押したんじゃないの、私が自分で……あっ、手が……」
「手がどうしたの!? 医者は! 早く医者!」
池田夫人は喚き散らし、暁月を見る目は毒を含んだ針のようだ。
「花依は医学の才があるのよ! メスを握る手が傷ついたら――池田暁月、絶対に許さない!」
「お姉ちゃんじゃないの……」
花依は泣きながらも、健気に言ってみせる。
「ほんとに……お姉ちゃんじゃ……」
その姿があまりにも「耐えている」から、余計に暁月が犯人に見える。
「さすが池田家の本物の令嬢ね」
「やっぱり血って変えられないのよ。偽物とは違うわ」
「田舎の貧乏人だろ? 善良さなんて期待するほうが間違い」
「善良? 悪いことばっかりして、そのうち罰が当たるさ」
称賛の波の中、花依は上品に顔を上げた。
「お姉ちゃん、パパとママは心配しすぎただけ。今日のこと、気にしないで。ご家族、もうすぐ迎えに来るんでしょ? 行って」
客たちは察する。――池田暁月は、もう池田家とは無関係だ。
向けられる視線はさらに冷たく、嘲りに染まった。
暁月は少し離れた場所で、笑っているのかいないのか分からない顔のまま眺めていた。
花依はともかく、池田家の人間は忘れたのだろうか。ここには監視カメラがある。
愛は、人を盲目にする。
暁月は何食わぬ顔で池田家の監視システムへ侵入し、さっきの映像を引き出した。
女王みたいに見下ろす態度で、指先がスマホの画面をコツ、コツと叩く。
「池田花依。さっき、私が押したって本気で言い切るの?」
花依は目を赤くしながらも、殊勝に言う。
「違うよ、お姉ちゃん……私は気にしない――」
よくできた、退いて見せる一手。
暁月は小さく笑った。
「困ったな。私は、すごく気にしてるんだけど」
花依の顔色がさっと変わる。嫌な予感が走った、その次の瞬間――
暁月の細い指が画面をタップした。
さっき花依が放った挑発の声が、その場に響く。
続いて、暁月の手を掴み、花依が自分から転げ落ちる場面が、宴会場の大型スクリーンにコマ送りで鮮明に映し出された。
解像度はやけに高く、音まで異様にクリア。
「……え」
呆然としたのは客だけじゃない。池田夫人と池田健永まで言葉を失い、振り返って花依を見た。
