第5章 婚約者

病室に、妙な沈黙が落ちた。

――この少女、自分の前に立っているのが誰だか分かっているのか?

新井家の海外を取り仕切る実力者。どれだけ頭を下げても取り入れない者が山ほどいる相手に、彼女は臆することなく「金」を要求したのだ。

金なんてただの道具だろう。普通なら、もっと別のものを欲しがる場面じゃないのか。

新井飛鳥は数秒、彼女を見つめ――ふっと口元だけを吊り上げた。

笑みは淡い。ほんのわずかに唇が弧を描いただけなのに、氷のように硬かった輪郭が一瞬でほどける。凍った水面の下から、春の光が一筋差し込んだみたいに。

「いい」

彼は静かに言った。

「爺様を救った。礼は弾む」

池田暁月は小さくうなずくと、踵を返して出ていく。迷いがない。潔いほどに。

我に返った宮本亜蘭が慌てて追いかけた。

「暁月、待って!」

病室を出ると、亜蘭は声を落として訊く。

「いつ鍼灸なんて覚えたんだよ? あれ、凄すぎるだろ」

「子どもの頃に先生について、少し」

暁月の声は淡々としていて、まるで天気の話でもしているみたいだった。

亜蘭はさらに聞きたかったが、暁月が語りたくない空気を察して、賢く口をつぐむ。

――この妹、いったいどれだけ秘密を抱えてるんだ。

病室では、新井飛鳥がベッド脇に立ち、祖父の穏やかな呼吸を見つめていた。表情は読めない。

「さっきの子を調べろ」

淡々と告げると、背後の秘書が即座に「承知しました」と返す。

院長が恐る恐る口を挟んだ。

「新井さん、先ほどの方がご祖父様に鍼を……念のため、改めて全身の検査を――」

「やれ」

飛鳥は短く頷き、続けて言う。

「監視カメラも回せ。刺鍼の一部始終を見たい」

「かしこまりました」

飛鳥は窓辺へ歩いた。

夜は深く、街の灯りが星の海みたいに瞬いている。

あの目を思い出す。

澄んでいるのに、どこか遠い。作った落ち着きじゃない。荒波を越えてきた者だけが持つ静けさだった。

二十歳そこそこの少女が、どうしてあんな目をする?

秘書がほどなく戻ってくる。

「新井さん、判明しました。池田暁月。池田家の養女ですが、本日、池田家から追い出されたとのこと。迎えに来ていたのは宮本亜蘭で、宮本家が取り違えで失っていた実子――その『娘さん』が池田暁月です」

新井飛鳥が、わずかに眉を上げた。

宮本家の、取り違えられていた娘――。

そして、思い当たる。

宮本家と新井家には確かに婚約があった。昔、新井の祖父が宮本志遠の命を救い、両家で約束したのだ。後に男女が生まれたら姻戚に――と。

新井飛鳥は二十八。宮本家の実の娘は二十。

つまり池田暁月は、名目上の――自分の婚約者。

飛鳥の瞳が、少しだけ深く沈む。

彼はこの婚約に、元々さほど興味がなかった。帰国したら適当な機会を見つけて解消するつもりですらいた。

だが今は、気が変わった。

婚約者が「別人」になった途端、急に解消したくなくなった自分がいる。

面白い女だ。

「続けろ」

飛鳥は言う。

「彼女のことは、全部知りたい」

宮本亜蘭は暁月を連れて病院の正面玄関を出た。タクシーでも拾おうとして――入口脇に停めたままのトラクターを思い出し、顔が引きつる。

暁月が横目で見た。

「それで帰ればいい。私は気にしない」

亜蘭はほっとして、それから微妙に眉を寄せる。

――千億の資産を動かす宮本家の次男が、トラクターで妹を迎えに来て、そのまま帰る。バレたら、話題になるどころじゃない。

まあ、いいか。妹が平気なら。

二人はトラクターに乗り込み、ブゥゥン、ブゥゥンと唸らせながら宮本本家へ向かった。

道中、亜蘭は何度も言いかけては飲み込む。

例の婚約の話だ。宮本家と新井家の縁談。新井飛鳥は能力も容姿も家も一級品で、暁月に釣り合わない相手じゃない。

でも――家には、もう一人「妹」がいる。

亜蘭は結局、黙った。

暁月は帰ってきたばかりだ。家の門をくぐる前に婚約なんて言い出したら、逃げられかねない。

――しばらくしてからでいい。

トラクターは一時間ほど走り、古雅な趣の大きな屋敷の前で止まった。

暁月は建物を見上げ、軽く眉を上げる。

池田家が口にしていた「劣悪な環境」を思い出して、改めて眺めた。

どこがスラムだ。

広大な敷地に、白壁と黒瓦。回遊式の庭が上品に連なり、しっとりとした風格がある。門の左右には樹齢百年を超える銀杏が二本、黄金色の葉が地面いっぱいに降り積もっていた。

「着いたぞ」

亜蘭が飛び降りる。

「ここが――俺たちの家だ」

暁月が何か言う前に、屋敷の門が勢いよく開いた。中年の夫婦が駆け出してくる。

手入れの行き届いた女性は、眉目が優しい。暁月を見た瞬間、涙がぽろりと落ちた。

「……私の娘……!」

宮本夫人・新谷若夜が飛び込んできて、暁月を力いっぱい抱きしめる。嗚咽が止まらない。

「つきちゃん……やっと会えた……二十年……二十年よ……!」

宮本家当主・宮本志遠は脇に立ったまま、目を真っ赤にして唇を震わせた。やっと絞り出した言葉は一つだけ。

「……帰ってきてくれて、よかった。本当に……よかった」

暁月は抱きしめられたまま、少しだけ身体を硬くする。

こういう距離の近い触れ合いには慣れていない。池田家で二十年育っても、あの家の奥さんにこんなふうに抱かれたことは一度もなかった。

けれど若夜の腕の中は温かく、ほのかな金木犀の香りがする。なぜか、振りほどく気になれない。

「母さん、泣きすぎ。妹がびっくりするだろ」

亜蘭が横で宥める。

若夜はようやく手を離し、涙を拭いながら暁月を上から下まで見つめた。見れば見るほど嬉しそうだ。

「似てる……本当に似てる。私の若い頃、そのまま」

「おまえと同じで綺麗だ」

志遠がぼそっと付け足す。

若夜が軽く睨み、すぐに暁月の手を引いて屋敷の中へ。

「さあ入って。色々用意してあるの。部屋も整えたから、気に入るか見て」

暁月は促されて歩きながら、屋敷の造りに目を走らせた。

亭と回廊、小橋に流れ。どこも手が入っていて、隙がない。

だが正厅に差しかかった瞬間、彼女の眉がほんのわずかに寄った。

――ちぐはぐだ。

紫檀の椅子には欧風レースの座布。中式の屏風の前に、現代的なガラスのローテーブル。飾り棚の古陶磁の横には、カートゥーン調の置物。

一つ一つは悪くない。だが並ぶと、雑炊みたいに散らかって見える。

暁月には「職業病」があった。

表向きは池田家に育てられた偽りの令嬢。

だが本当の顔は、国際的に名を知られるトップデザイナー――『M』。

調和の取れていない配置が、どうしても気になる。

若夜がその視線に気づいて、気まずそうに笑った。

「これはね……あなたの妹が置いたの。ミックスしたほうが暮らしの温かみが出るって……」

妹。

暁月はその単語を拾ったが、今は深く問わない。

見ていられないなら、直せばいい。

彼女は何食わぬ顔で歩み寄り、ガラスのテーブルを窓際へすっと移す。カートゥーンの置物は飾り棚の空いているマスへ。レースの座布団を外し、隅に置かれていた素色の錦の座布団へ差し替える。

さっさっ、と数手。

正厅の空気が、がらりと変わった。

散らばっていた要素が不思議とまとまり、もの同士が呼吸を合わせる。まるで、最初からそこにあるべき場所へ戻ったかのように。

若夜と志遠が目を合わせ、互いの目に驚きが浮かんだ。

亜蘭は口を開けたまま固まる。

「暁月……おまえ、インテリアまでできるのか?」

前のチャプター
次のチャプター