第7章 先生と生徒
江口一鶴は玄関口に立ったまま、顔から血の気が引くほど驚いていた。
目を見開いて池田暁月を凝視し、口を開いては閉じ、閉じては開く。
その異変に気づいた宮本志遠が、慌てて歩み寄る。
「江口先生、どうされました? お加減でも――」
「い、いえ……」
江口一鶴はやっとのことで唾を飲み込む。横目で見ると、池田暁月が湯呑みを持ち上げ、澄んだ冷たい瞳でこちらを一瞥した。
――警告。はっきりそう分かる視線。
背中にひやりとしたものが走り、江口一鶴は即座に察する。
ボスは身元を明かすつもりがない。
深く息を吸い、胸の中の荒波を押し込めるようにして笑みを作った。
「宮本さん、失礼しました。……ただ、お嬢さまの雰囲気があまりに素晴らしくて、思わず見惚れてしまいまして」
言いながら腰が自然と低くなる。声も、必要以上に恭しかった。
宮本志遠は疑いもせず、嬉しそうに紹介する。
「江口先生、こちらが私の実の娘、池田暁月です。つきちゃん、こちらは国際的に名高いデザイン・マスターの江口一鶴先生だ。これから君の個人指導をお願いしている」
「池田嬢」
江口一鶴は足早に近づき、自ら手を差し出した。
池田暁月は湯呑みを置き、軽く握り返す。力は弱い。だが江口一鶴は、ぶわっと鳥肌が立つのを止められなかった。
「江口先生」
池田暁月の声は淡々としている。
それを、宮本明珠が黙って見ていた。
江口一鶴が池田暁月へ向ける視線――
あれは師が弟子を見る目ではない。どちらかといえば、部下が上司を見る目だ。畏れと、媚びが混じっている。
世界的なデザイン・マスターが、ただの学生にこんな態度を取るだろうか。
胸の奥が、こつん、と鳴った。
だが明珠は表情を崩さないまま、笑って前へ出る。
「江口先生。お噂はかねがね」
柔らかな声。
「私、宮本明珠と申します。私もデザインを学んでいるんです。……お姉さまがご指導を受ける間、横で少しだけ見学させていただくことはできますか?」
「それは……」
江口一鶴は池田暁月を一度だけ見た。暁月は何も示さない。
それを確認してから、丁寧に言葉を選ぶ。
「次女様、冗談がお上手です。私は宮本さんよりお預かりして、池田嬢お一人をお教えするお役目を頂戴しております。ご興味がおありでしたら、授業が終わってから改めて意見交換という形でいかがでしょう」
やわらかい物言いだが、拒絶は明確だった。
宮本明珠の笑みが一瞬だけ固まる。だがすぐ、何事もなかったように戻した。
「こちらこそ出過ぎたお願いでした。江口先生、どうかお気になさらず」
新谷若夜がすかさず間に入る。
「明珠、あなたは十分できているでしょう。江口先生のご指導の邪魔をしちゃだめよ」
「はい、ママ」
明珠は素直に頷き、静かに下がった。
江口一鶴は宮本家にしばらく滞在したが、その間ずっと、さりげなく池田暁月の様子を観察していた。
――ボスは、この家であまり良い扱いを受けていない。
養女だという宮本明珠は、表向きは「お姉ちゃん」と親しげに呼ぶのに、目の奥でときおり計算の光を走らせる。
それに、執事の視線も妙だった。品定めするような、拒むような。
江口一鶴は心の帳面に、きっちり書き留める。
帰り際、彼はわざわざ池田暁月の前へ出て、腰を折った。
「池田嬢。明日より授業を開始いたします。何かご要望はございますか?」
「ない」
池田暁月は目を上げる。その視線は霜のように冷たい。
「宮本さんの段取りどおりで」
「承知しました。承知しました」
江口一鶴は何度も頷き、異様なほど低姿勢だった。
その光景が、宮本明珠の目に刺さる。
胸の中で警報が鳴りっぱなしになる。
江口一鶴を送り出したあと、宮本明珠は自室へ戻った。扉を閉めた瞬間、顔がすっと沈む。
坂東が湯気の立つ椀を持って入ってきて、明珠の表情を見て小さく息をついた。
「次女様、あまりお気になさらず。お嬢様は旦那様と奥様の実のお子です。多少ひいきが入るのも……仕方のないことです」
「気にしていませんよ」
明珠は口角だけ上げた。
「お姉さまは外で苦労なさったんですもの。パパとママが優しくするのは当然です」
坂東は首を横に振る。
「次女様はお優しすぎます。私はこの家に三十年おります。人を見る目には自信がある。あのお嬢様は……生半可な相手ではありません」
声を落とす。
「正厅の飾り付けをご覧になりましたか。来てどれほど経ったというのに、次女様が整えたものを、あっという間に変えてしまった。それで旦那様も奥様も叱るどころか、褒めた。あれは――次女様への牽制です」
宮本明珠の指が、きゅっと握り込まれる。
正厅の飾りは、明珠がひと月かけて組んだものだ。選び抜いた一点一点。
それを池田暁月は、軽く手を入れただけで「良くなった」と持ち上げられた。
どうして。
なぜ私が。
「それに、江口先生ですよ」
坂東は続ける。
「名の知れた方が、あそこまでお嬢様にへりくだるなんて……何かしらの手を使って、目をかけさせたのでしょう」
明珠の目が、すっと暗くなる。
自分も感じていた。江口一鶴の反応は明らかにおかしい。
池田暁月が、ただの庶民の家で育った子なら――そんな力はないはずだ。
なら、考えられるのはひとつ。
池田暁月の背後に、まだ知らない「何か」がある。
「坂東さん、分かりました」
明珠は深く息を吸う。
「でも、お姉さまは戻ってきたばかりです。私は、無用な衝突はしたくありません」
「次女様が分かっておられるなら結構です」
坂東は頷き、空になった椀を持って退出した。
扉が閉まった瞬間、明珠の笑みは跡形もなく消える。
化粧台の前へ歩き、鏡に映る自分の整った顔を見つめる。
瞳だけが、じわじわと冷えていった。
池田暁月。
どんな手を持っていようと、ここは宮本家。
私はここで十年以上暮らしてきた。
昨日今日戻ってきたよそ者が――どうして私のすべてを奪えるの。
*
翌朝。江口一鶴は約束どおり宮本家を訪れた。
宮本志遠は書斎を一室空け、教室代わりに整えている。室内には各種の道具と素材が揃えられ、机の上には準備の行き届いた空気があった。
池田暁月が書斎へ入ったとき、江口一鶴はすでに十分前から待機していた。机には分厚い資料が高く積まれている。
暁月の姿を見た瞬間、江口一鶴は反射的に立ち上がり、背筋をぴんと伸ばした。
「池田嬢、おはようございます」
「うん」
池田暁月は席につき、資料をぱら、とめくる。
江口一鶴は慎重に言った。
「池田嬢、本日は基礎から始めましょうか。こちらは私がまとめた理論の枠組みです。ご覧になって、調整したい点があればお申しつけください」
廊下を通りかかった坂東が、思わず立ち止まる。
――教師が生徒に授業内容の調整を求めるなど、聞いたことがない。
池田暁月は答えず、ただ小さく頷いた。
江口一鶴は、ほっとしたように講義を始める。
口の中が乾くほどしゃべっても、池田暁月は終始無表情で、理解しているのかどうか読み取れない。
だが江口一鶴には分かる。
ボスは、全部聞いている。
この無関心そうな態度は、ただ「見せる気がない」だけだ。
途中、書斎の扉がコンコンと叩かれた。
宮本明珠が盆を手に入ってくる。笑みを浮かべ、声は甘い。
「お姉さま、江口先生。お菓子とお茶をお持ちしました。少し休憩なさってください」
「ありがとうございます、次女様」
江口一鶴は丁寧に礼を言う。
明珠は盆を置いたが、退出しなかった。横に立ち、興味深そうに机上のデザイン画へ視線を落とす。
「これ、お姉さまのデザイン画ですか? とても素敵」
感嘆の声とは裏腹に、その瞳の奥に、かすかな嘲りが走った。
