第4章
「お母さん、お父さん」彼女は言うと、まっすぐ祖母の方へ歩み寄った。「あなたが茉莉花さんですね。わたくしは静香と申します。でも、静と呼んでください」
祖母は彼女を見つめた。自分が本来生きるはずだった人生を生きてきた、この女性を。
「……きっと、複雑な心境でいらっしゃいますよね」静は続けた。「この瞬間が来るのが怖くもあり、同時に楽しみでもありました」
「どうして怖いの?」祖母は尋ねた。
「だって、私はあなたの人生を生きてきたのですから。本来なら、あなたのものだったはずの人生を。教育も、機会も、この素晴らしい方々からの愛情も」彼女は遥人と美智子を指して言った。「あなたから五十五年もの歳月を奪ってしまったような気がするんです」
祖母は怒るか、嫉妬するかだと思った。でも、その表情は……悲しそう?だった。
「何も盗んでなんかないわ」祖母は優しく言った。「あなたは赤ん坊だった。どれもあなたが選んだことじゃない」
「でも……」
「でもも何もない。あなたが成し遂げたことを見て。あなたがどんな女性になったかを見て」祖母は微笑んだ。それは心からの笑みだった。「私は五十五年を失ったかもしれないけれど、その歳月が無駄にならなかったことが嬉しい。あなたのような価値ある人に生きてこられたことが、嬉しいわ」
このやり取りを見ながら、私はトラックに撥ねられたような衝撃的な事実に気づいた。これが、女性の在り方なんだ。静は自信に満ち、成功を収め、尊敬されている。男性と対等に話し、決断を下し、場を支配する。誰かの召使いでも、サンドバッグでもない。
そして今、祖母が目の前で変わっていくのがわかった。この人たちに囲まれていると、彼女は背筋を伸ばし、はっきりと話し、目的を持って動く。長年の虐待の下に隠されていた、これが本当の彼女の姿なのだ。
「そして、君が空だね」遥人が、祖母に向けたのと同じ優しい笑みで私の方を向いた。
「はい」と私は答えた。急に自分がひどく幼く、そして貧しく感じられた。
「今朝、茉莉花から電話で君の話を聞いたよ。聡明で、優しくて、偉大なことを成し遂げる運命にある子だってね」
祖母が今朝、彼らと話したなんていつの間に?それに、私が聡明だって?
「君のために、いくつかの優秀な進学準備コースの編入試験も手配済みよ」美智子が付け加えた。「でも、それはまた後で。今日は家族の時間だもの」
夜が近づくにつれ、その違いはさらに歴然となった。坂本さんと美智子さんは、祖母の人生や健康、そして夢について尋ねた。彼女の答えが大切なものであるかのように、耳を傾けた。
和也は会話を独占し、自分がどれだけ遇されるべきかについて語った。
静は私に学校や本、将来の計画について尋ねてくれた。私の考えを大切なものとして扱ってくれた。
大輔は意味不明なビジネスのアイデアを売り込み続けた。
美智子は祖母に家族の写真を見せた。彼女が家に帰ってくることを願いながら祝ってきた、五十五年分のクリスマスや誕生日、そして記念日の写真だ。
真由美は高価な家具と一緒に自撮りをしていた。
だが何よりも、私は祖母が変貌し続けるのを見ていた。本物の愛に囲まれたこの家で一時間過ごすごとに、彼女はもっと自分らしくなっていく。彼女が本来なるべきだった、本当の自分に。
これが祖母の本来あるべき人生だったのだ。教育、尊敬、愛、そして選択肢。それを目にした今、なぜ彼女があの危険な笑みを浮かべてパインリッジに戻ってきたのか、私にはわかった。
彼女は、自分から奪われたものへの正義を求めているだけではなかった。
二度と他の女性に同じことが起こらないようにしたかったのだ。
この私から、始めるために。
翌朝、私は今まで寝た中で一番快適なベッドで目を覚ました。私たちのトレーラーハウス全体よりも広い客室だった。
「空? 静です。入ってもいいかしら?」柔らかなノックの音が思考を遮った。
「もちろんです」
彼女は朝食のトレーを手に部屋に入ってきた。姉がいたらこんな感じなのだろうか、と私は思った。
「戸惑っているんじゃないかと思って。新しい場所はいろいろと大変でしょう」
戸惑っているなんてものじゃない。昨夜は超高層ビルを所有するような人たちと夕食を共にしたのだ。食器だけでも、私たちのひと月の食費より高いだろう。
「いろいろと、どう感じてる?」静は窓際の椅子に腰を下ろしながら尋ねた。
「混乱しています。おばあさんにとっては嬉しいことだけど、同時に……」
「怖い?」
「はい」
「それは普通よ。あなたを取り巻く世界が一夜にして変わったんだもの」彼女は心配そうな表情で身を乗り出した。「でも空くん、これだけは知っておいてほしい。おばあさんは、あなたのために計画を立てている。大きな計画をね。自分が決して得られなかったあらゆる機会を、あなたに与えたいと思っているの」
階下では、祖母が遥人、美智子、そして他にも何人かの高価なスーツを着た人々と会っていた。川村家の一同は、巨大な会議テーブルの片側に固まっており、マホガニーとクリスタルの調度品に涎を垂らさんばかりの様子だった。
「さて」祖母が口を開くと、その声には完全な威厳が備わっていた。「私の家族の面倒を見たいのです。全員の。彼らは……長年にわたり、私のために多くのことを犠牲にしてくれましたから」
犠牲? 犠牲になったのは、祖母の方だけだ。でも、今なら祖母が何をしているのかわかる。罠を仕掛けているんだ。
「和也」彼女は続けた。「あなたは三十八年間、私の夫でした。その労には報いるべきでしょう」
和也はしわくちゃのシャツを着たまま、威厳を保とうと背筋を伸ばした。「まあ、わしはお前のために、いつも正しくあろうと努めてきたからな、真紀」
「ええ、わかっています。だからこそ、あなたに投資の機会を提供したいのです。父親、南浜プロジェクトについて説明していただけますか?」
遥人は気まずそうな顔で、いくつかの書類を取り出した。「我々は南浜での掘削事業の拡大を検討しています。これは……リスクが高い。非常に高いのです。初期投資は相当な額になりますし、成功の確率は……」
「いくらだ?」和也が目を輝かせて遮った。
「出資金は五百万ドルです」
和也は口をあんぐりと開けた。「五百万?ドル⁉ で、見返りはいくらなんだ?」
「成功すれば、五千万ドルになる可能性もある。失敗すれば……」祖母は肩をすくめた。「すべてを失うことになるわ」
和也の目に、まるでクリスマスの朝のように強欲の光が灯るのが見えた。五千万ドル。彼の頭の中ではもうその金の使い道を考えており、ビールが何ケース買えるか計算しているに違いない。
「大輔」祖母は、いわゆる息子の方を向いた。「あなたは会社での役職が欲しいのよね」
「ああ、俺が本領発揮できるようなポジションがいいな、わかるだろ?」
「うってつけの機会があるわ。新しい子会社を立ち上げるの。石油流出事故の環境浄化事業よ。とても重要な仕事。そして……現場主義のね」
スーツ姿の男の一人が、神経質そうに身を乗り出した。「か、その事業は現在、連邦政府の調査対象となっておりまして.......」
「環境規制の先を行き過ぎたせいよ」祖母は滑らかに彼の言葉を遮った。「大輔、あなたが社長になるの。全権限、そして全責任。すべての書類にあなたの名前が記されるのよ」
「社長?」大輔は雄鶏のように胸を張った。「そいつは最高だ! いつから始められるんだ?」
「今すぐにでも。この設立趣意書にサインする必要があるわ」彼女は分厚い書類の束をテーブルの向こうへ滑らせた。「細かいところまで読む必要はないわ。法的な手続きってだけだから」
細かいところは読むな? 何かにサインするとき、それは決して良いアドバイスではない。だが大輔は、自分が役員室で人々に命令している姿を想像しているのか、すでにペンに手を伸ばしていた。
「真由美」祖母は、心からの温かみに見える笑みを浮かべた。「あなたは、本物のリッチなライフスタイルを体験したいのよね」
「マジで!? もちろん!」
「東都で最もエクスクルーシブなパーソナルショッパーを手配しているわ。デザイナーの服、高級エステ、最高峰の社交界への入場券」
「本当に? 」
「それ以上よ。生まれてから一日も働く必要がなかったような人たちのね」
静が口を挟んだ。その声は慎重に中立を保っていた。「わたくしからいくつか紹介できますわ。そのサークルには……興味深い女性たちがおりますから。新興の富裕層にはとても興味があるようです」
静の「興味深い」という言い方には、それが褒め言葉ではない何かが含まれているように感じた。
「最高級の店、最高のレストラン、最も限定的なイベントに無制限でアクセスできるわ」祖母は続けた。「あなたがすべきことはただ一つ……その場に溶け込むこと」
真由美は椅子の上で飛び跳ねんばかりだった。「いつから始められるの?」
「今日からよ。パーソナルショッパーが階下で待っているわ」
罠は完璧に機能していた。一人ひとりがずっと欲しがっていたものを手に入れ、その結果を考えるには興奮しすぎていた。
「そして翔太」祖母は十六歳の私の従兄弟に目を向けた。「あなたはテクノロジーに興味があるそうね」
「当たり前だろ! 全部欲しい! 最新のプレステ、Xbox、ゲーミングPC、VRセット……」
「まだ市場に出ていないテクノロジーに触れる機会をあげると言ったらどうかしら?」
翔太の目は、クリスマスが年に二回来ると告げられた子供のように大きく見開かれた。「例えば何?」
「試作品のゲーム機。ベータ版のソフトウェア。実験的なバーチャルリアリティ」祖母は共謀者のように身を乗り出した。「でも、すべてをテストして、体験を記録し、詳細なフィードバックを提供してもらう必要があるわ」
「最高じゃん!」
「ただ一つ条件があるの。テストするものはすべて、品質管理のために監視する必要がある。使用パターン、パフォーマンス指標、ユーザーの行動を追跡しないと……」
「つまり、俺がプレイするのを見るってこと?」
「システムが見るのよ。自動モニタリング。あなたは気づきもしないわ」
自動モニタリング。 彼がオンラインで行うすべてのこと。すべてのゲーム、すべてのウェブサイト、すべてのメッセージ。翔太は完全な監視下に置かれることに同意し、それを贈り物だと思っていた。
そして最後に祖母は私の方を向き、部屋の空気がわずかに変わった。
「そして空、私の可愛い孫娘」
全員が私を見た。他の皆と同じように何か高価なものをねだるだろうという、あの馴染みのあるプレッシャーを感じた。
「高価なものは要らないよ、おばあさん。私はただ……」
「何が欲しいの?」
「私は学びたい。大学に行って、法律を勉強して、自分ではどうにもできない人たちを助けられるようになりたいんだ」
遥人が微笑んだ。それは今朝、彼から初めて見た心からの笑顔だった。「すでにいくつかの優秀な進学準備コースの編入試験を手配済みだよ。もちろん、全額奨学金付きだ」
「夏休みには」美智子が付け加えた。「市内で最高の法律事務所でのインターンシップもね。実際の事件を七海で経験できるわ」
「私たちは未来への投資を信じているの」静さんが言った。「そして空くん、あなたこそが間違いなく未来よ」
これは、他の人たちへの「贈り物」とは違っていた。本物だと感じた。彼らはただ私を喜ばせるためにお金を投げつけているのではなく、私の夢を本気で気にかけてくれているようだった。
