第1章 トレンド

今日は、市川希美と夏川翔太の結婚七周年記念日だった。

夕食の支度をしているのに、夫も、息子の夏川日向も、まだ帰ってこない。

テーブルの上でスマホがぶるぶる震えた。夏川翔太のアシスタントからだ。

通話がつながった瞬間、向こうから切羽詰まった声が飛んでくる。

「希美さん、まずいです。出ました……」

安原は、いつもなら冷静で落ち着いている男だ。その安原がここまで慌てている。希美の胸も、嫌な音を立ててざわついた。

「どうしたの?」

「今日、夏川さんが、見知らぬ女性と日向くんを連れて遊園地にいたところを盗撮されました。写真、もうトレンド上位です。会社でも抑えが利かなくなってきてて……」

予感が当たった。

希美の身体がびくりと震え、用意していた赤ワインが手元から滑って床にぶちまけられる。赤いしみが、じわりと広がった。

安原は一拍置き、気まずそうに続ける。

「希美さんもご存じのとおり、夏川さんって業界では“理想の夫”のイメージで売ってきたじゃないですか。これ以上燃えると、たぶん……」

「分かってる」

希美は窓の外を見た。少し先の遊園地では、花火がきらきらと夜空を裂いている。

けれど――もう、全部が前と同じじゃない。

「できれば、SNSに夏川さんとのツーショットを上げてもらえませんか。火消しで……」

「……うん」

電話を切った直後、まるで狙い撃ちみたいに、新しいトレンドがスマホへ通知される。

『ニュース!夏川さん、ブレイク中の若手女優と手つなぎ!妻・希美は笑いもの?』

指先で画面をなぞっても、胸の波は不思議なくらい立たなかった。

今日は、夏川翔太の好きな人――伊藤沙梨が帰国して二日目。しかも彼女の二十八歳の誕生日。

写真は少しぼやけていた。弱い照明が夏川翔太の完璧な横顔を照らし、高い鼻筋が影を落とす。彼は伊藤沙梨を見て、浅く笑っていた。画面越しでも、溢れる甘さが分かるほどに。

伊藤沙梨は背中だけ。黒髪が腰まで落ち、細い腰に長い脚。腕の中には、屈託なく笑う夏川日向。――似合いすぎて、言葉がいらない。

コメント欄は爆発していた。大半が夏川翔太と伊藤沙梨の味方だ。

『うわ、このカプ確定でしょ!マネージャー上がりとは格が違うわ』

『前からあのビッチ無理。背中だけで妻より強いって何』

ほんの少しだけ、希美を擁護する声もある。百のうち一つくらい。

『え?七年も付き合ってこれで終わり?芸能界こわ……』

希美は長く息を吐き、スマホを置いた。受け入れるしかない、と静かに思った。

世間の目には、彼女は“伊藤沙梨の幸せを七年盗んだピエロ”に過ぎない。

夏川翔太とは大学の同級生で、同じクラス、同じサークルだった。皆が知っていた。希美が三年間、彼の後を追い続けたことを。

でも彼は、一度だって優しい顔をしてくれなかった。

伊藤沙梨は幼なじみで、キャンパスからそのままドレスへ――そんなふたりだった。けれど人生は、噛み合わない。

あるパーティーの夜。夏川翔太は伊藤沙梨と口論し、浴びるほど酒を飲んだ。

その酒に、玉の輿を狙う女優が薬を仕込んでいた。

心配になった希美が部屋へ駆け込んだ。そこから先は――一夜の過ち。

夏川家の人間に“現場を押さえられ”、祖母が使いを寄越して結納を迫り、夏川翔太は希美と結婚させられた。

当時、希美は泣き腫らした目で必死に弁解した。だが夏川翔太は吐き捨てたのだ。これは彼女が仕組んだ罠だと。それ以来、彼は彼女を骨の髄まで憎んだ。

最初から、間違いだった。

翌日、伊藤沙梨は彼の目の前で希美の頬を思い切り叩き、泣きながら「クズ女」と罵った。

夏川翔太は冷ややかに見下ろし、瞳の底に侮蔑と怒りをたたえていた。

あのとき、彼は彼女の顎を乱暴に掴んで言った。

「市川希美、お前は本当に卑しい。夏川家に嫁げると思うな。俺は絶対にお前なんか娶らない」

本当は、娶る娶らないなんて、どうでもよかった。希美が本当に嫁ぎたかった人は――五年前の、ある雪の夜に死んだ。

ただ、その人に似た眉と目を、どうしても捨てきれなくて。冷たい口調で、平気なふりをした。

けれど結局、彼の妻になった。

妊娠したからだ。

子宮壁が薄く、中絶すれば母になれない可能性が高い、と言われた。

伊藤沙梨はそれを知り、怒って海外へ飛んだ。夏川翔太は引き止めたが無駄で、彼女が旅立つその日に、希美を連れて婚姻届を出し、ネットに向けて結婚を公表した。

あとになって分かった。彼がしていたのは意地の張り合いだ。伊藤沙梨に後悔させ、戻らせるための賭け。自分はその“駒”にすぎなかった。

なら、降りるべきだ。

――最後の一つさえ終えれば。

スマホには通知が次々と跳ねる。安原からは催促、実家の執事からも「若様はどちらに?」と電話。

希美は額を押さえ、アルバムから夏川翔太との写真を探した。

……ない。驚くほど少ない。しかも、どれも夏川翔太が手で顔を隠していたり、横顔しか映っていなかったり。

堪えきれず、プライベートアルバムを開く。胸が、きゅっと縮む。

墓の前で撮った一枚。彼女だけが抱えている秘密。

夏川翔太という人間を強く意識したのは、墓参りのときだった。消えたはずの記憶と重なるような、あの眉の形――それが忘れられなかった。

でも、いま改めて見れば、似てなどいない。

長いこと探して、ようやく“まともに使える”一枚を見つけた。そこに彼女はいない。

雪の夜。夏川翔太が日向を抱いて窓辺に立ち、外を眺めている。温かな空気だけが写っている。

希美はSNSを開き、文面を打ち込んだ。父子の写真を添える。

『月と雪。そのどちらでもない、あなたは第三の絶景』

世論の風向きが、ようやく少し変わる。

『ほらね、パパラッチの捏造でしょ。似た女優連れてきただけじゃん』

『え、結局浮気なの?夏川さんはっきりして!』

『本人が火消ししてるし解散解散』

それでも夏川翔太をタグ付けする人は多いが、彼は一切反応しなかった。

反応しない――それがいちばんの肯定だ。

騒動がひと段落し、安原から礼のメッセージが届く。希美は短く返したあと、夏川翔太へ電話をかけた。これ以上派手に動けば、ブランドが契約を切りかねない。

……だが、出たのは夏川翔太じゃない。

澄んだ甘い女声。伊藤沙梨だった。

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