第2章 離婚しよう
「希美、久しぶり」
「翔太、今夜は帰らないよ。今日は私の誕生日で、すっごく嬉しそうだったから……飲みすぎちゃって」
「それに日向もいい子。私にママになってほしいって言うの。人見知りしない子は可愛いけど、外で騙されないように気をつけないとね」
冗談めいた口調のくせに、挑発だけは隠しもしない。
「沙梨ママ、だれと電話してるの?」
受話器の向こうに、夏川日向の声が割り込んだ。
「家のあのババアじゃないよね。沙梨ママ、相手しなくていいよ。パパをねんねさせよう、日向ねむい」
言いたいことが喉の奥でつかえて、希美はスマホを握る指に力が入った。胸の内は、苦くて、重くて、言葉にならない。
息子の冷たい態度には慣れたつもりだった。けれど、他人を「ママ」と呼ぶ声を耳にしてしまうと、どうしても胸がきしむ。
通話は、ぶつりと切れた。
直後、スマホが震える。新しいトレンド通知。発信者は――夏川翔太。
翔太がSNSに投稿していた。
『お誕生日おめでとう、姫様。太陽も月も星も輝くこの世界で、貴方はそれらとは異なる、唯一無二の光』
添えられた写真には、伊藤沙梨がケーキの前で目を閉じ、願いごとをしている姿。
ネットは、案の定の大炎上だった。
希美のSNSにも罵倒が雪崩れ込む。番号まで掘られ、SMSで「恥を知れ」と一文字ずつ刺される。
コメント欄も悪意まみれだ。
『笑った、自作自演。さすが役者』
『危うく信じるとこだったわ。この世にこんな厚かましい女いる?犬みたいに媚びて上に這うの?』
『鏡見てこいよ。お前が釣り合うと思ってんの?』
一瞬で、全身の力が抜けた。
希美は床にこぼれた赤ワインを手早く拭き取り、用意していたキャンドルディナーをそのままゴミ箱へ放り込んだ。
初めてじゃない。夏川翔太はいつだって、彼女を罵られる場所へ置いてきた。
弁護士に連絡を入れ、離婚協議書を急いで作ってもらうよう頼む。
あのとき、ある人に約束した。彼のそばで支える、と。けれど失望はもう、十分すぎるほど積もってしまった。
それに――苦しみすぎた。
あの人がまだ生きていたなら、責めたりしないだろう。きっと。
協議書が印刷されると、希美は迷いなく署名し、指印を押し、写真を撮ってSNSへ投稿した。
またネットは騒いだ。けれど、もう関係ない。
いずれこうなる。初恋が戻った以上、彼女が去らなくても、向こうが切り出しただろう。
何より、翔太は――「彼」に少しも似ていない。
スマホは鳴り続けた。電話、メッセージ……希美は見もしないで電源を落とし、そのまま眠った。
真夜中。
ドアが乱暴に開いて、酒臭い夏川翔太が寝室へ踏み込んできた。
「希美、なんで電話に出ない。友だちの誕生日を祝っただけだろ。ここまで大ごとにして、やりすぎじゃないか」
起こされ、責められても、怒りも悲しみも湧かなかった。心は不思議なくらい凪いでいた。
希美はゆっくり上体を起こし、薄暗い部屋で彼の琥珀色の瞳をまっすぐ見た。
「私、騒いでない。話題作りもしない」
言葉を切って、息を整える。
「……本気で離婚する。夏川翔太」
灯りのない部屋で表情は読めない。ただ、握り締めた拳だけが白く、血管が浮いていた。
しばらくして、苛ついた冷たい声が落ちる。
「こんなことで離婚? 芸能界がどんなところか、分かってるだろ」
「今は大炎上だ。ブランドもファンもピリついてる。俺は処理することが山ほどある。余計な面倒を増やすな」
希美は、ふっと笑った。
夏川翔太は家柄こそ良いが、夏川家が敷いた道を嫌って、祖母に反発しながら業界でのし上がってきた男だ。だからこそ、高級ブランドの契約に執着する。
彼に並ぶため、希美も家業を継ぐのをやめ、マネージャーとして走り回り、盾になろうとした。
それなのに今、深夜に戻ってきた理由は――解約が怖いから。彼女に「空気を読め」と言いに来ただけ。
希美は鼻で笑い、淡々と言った。
「私には関係ない。それに私、使い捨ての紙じゃない。毎回あなたの尻拭いをするために存在してるわけでもない」
「協議書は机の上。早くサインして」
沈黙ののち、歯を噛みしめるような声が返る。
「後悔するぞ、希美」
返事をせず、希美は横になり、天井を見上げた。
――もちろん後悔する。
心の奥にしまっていた「彼」を恋しがって、似た眉と目を持つ夏川翔太を愛そうとしたことを。
最初から、間違いだった。
その夜、希美はまた夢を見た。
血だまりの中で倒れた少年が、血まみれの手で最後の力を振り絞り、彼女の頬を包む。
「希美、怖がるな。泣くな」
「約束して。翔太を……頼む」
夢は現実みたいに生々しく、朝起きた枕は涙で濡れていた。
彼が、彼女の悔しさを知って会いに来てくれたのだろうか。
深呼吸し、背筋を伸ばす。きちんとした服に着替え、コーヒーを淹れ、複雑な感情を全部押し込めた。
――だが机の上の離婚協議書が目に入り、眉間がきゅっと寄る。
朝食も取らず、会社へ向かった。やることを全部片づけるつもりだった。
地下駐車場に車を入れた瞬間、伊藤沙梨が目に入る。
赤いハイヒール、作り込んだメイク。夏川翔太のマイバッハから降りてきたところだった。
「希美さん、お元気そうで」
声は甘いのに、視線は露骨に刺々しい。
「戻って早々、迷惑かけちゃってごめんね。ネットで叩かれて大変だったでしょ」
「みんな『あなたじゃ翔太に釣り合わない』って。ひどいよねえ」
希美はゆっくりと車のドアを閉めた。
「自覚あるんだ。自分が迷惑だって」
「愛人扱いされるの、気持ちいい?」
伊藤沙梨の顔が、一瞬で歪む。
無理に笑って言った。
「希美さん。あなたが持ってるものは、元々私が譲ってあげたもの。私が戻ったんだから、返してもらわないと」
希美は笑う。
「へえ。夏川翔太って中古品なんだ。フリマアプリみたいに、いつでも回収できるのね」
「……っ!」
伊藤沙梨は悔しさで唇を噛み、ふと希美の首元へ視線を落とす。夏川婆さんから受け継いだ、家宝の翡翠。
そのまま手を伸ばし、引きちぎろうとした。
希美が腕で叩き落とす――と、さっきまで強気だった伊藤沙梨はその勢いに乗じて派手に転んだ。瞬時に涙を溜め、花が散るみたいにこぼしながら、希美の背後へ訴える。
「希美さん……私は、慰めようとしただけなのに。どうして手を出すの……?」
