第3章 この子はもういらない
「希美、何してる!」
希美が状況を飲み込むより先に、大きな手が彼女を乱暴に引きはがした。
夏川翔太だ。
伊藤沙梨の姿を見た途端、凛とした眉がきゅっと寄る。彼は身をかがめ、そのまま姫抱きで沙梨を抱き上げた。眼差しには痛いほどの庇護が宿っている。
「怖がるな。俺がいる」
沙梨は腕の中で、震えるように泣いた。
希美は腕を組んだまま眺め、思わず鼻で笑う。
それを見て、翔太の表情がさらに冷えた。
「希美、沙梨に謝れ」
希美はゆっくり瞬きをした。胸の奥から酸っぱさがこみ上げてくる。
――もし、あの人が生きていたら。あの人も、こんなふうに迷いなく誰かを守ったのだろうか。
愛される側は、いつだって当然みたいに庇われる。何も怖がらずに。
希美は静かに言った。
「どうして私が謝るの?」
「翔太、希美さんを責めないで……」
沙梨は涙をこぼしながら、さらに声を震わせる。足首はすでに赤く腫れていた。
「私、ただその翡翠のペンダントを見たかっただけなの。まさか希美さんが、あんなに怒るなんて……」
「それに、海外に行く年……本当は、あなたが私に翡翠のペンダントをくれるって言ってたのに……」
――演技がうますぎる。
希美は知っている。沙梨がその翡翠のペンダントを欲しがる理由も。
夏川家のパーティーで、おばあちゃんがはっきり言ったのだ。『この翡翠のペンダントを持つ者だけを、夏川家の孫嫁として認める』と。
けれど沙梨は勘違いしている。おばあちゃんが「誰に渡したいか」――それがすべてだということを。
翔太の目が氷みたいに冷たくなる。
「今すぐ謝れ。三度は言わない」
希美の我慢がぷつんと切れた。腹の底から火が立つ。
「寝言は寝て言いなさい!」
「いいの、翔太……平手打ちくらい……」
沙梨が嗚咽混じりに言い足す。
「私のせいで、あなたたちがこんなに不仲になるのは嫌……」
希美は、笑った。
そのまま迷いなく歩み寄り、手を上げる。
ぱん、と乾いた音が弾けた。
沙梨の頬に、しっかり一発。
「『殴った』って言うんでしょ。今、ちゃんと補充した」
「ごめん。手が滑った」
沙梨の頬はみるみる赤く腫れ、翔太の顔色は怒りで青白くなる。
希美は首元の翡翠のペンダントを乱暴に引きちぎり、沙梨の手に押し込んだ。
「中古品。気に入って使って」
次の瞬間、翔太がそれを奪い取って床へ叩きつけた。ぱきり、と嫌な音。
彼は歯を食いしばり、沙梨を宥めるように言う。
「夏川家にはいくらでもある。帰ったら好きなのを選べ。こんなの割れてもいい」
希美の視線が、床で砕けた翡翠へ落ちた。
おばあちゃんの形見だ。しかも――そこには、もう希美の名が刻まれている。
これを壊したと知られて、次も翔太が夏川家に無事に戻れると思っているのか。
結婚してから、希美が翔太の前でここまで強く出たことはない。
去ろうとした瞬間、手首をきつく掴まれた。低く刺すような声が落ちる。
「希美、いい加減にしろ。わざわざ会社まで来たから、チャンスをやろうと思ったのに」
「このまま反省しないなら、夏川夫人の座も終わりだぞ」
希美は嗤い、真正面からその瞳を見返した。
「チャンスなんていらない。夏川翔太」
「私は今日、辞めに来ただけ。あなたの尻拭いをしに来たんじゃない」
「それと、夏川社長。離婚協議書にも、さっさとサインして」
翔太の背が、わずかに揺れた。
希美は手首を引き抜き、踵を返して歩き出す。
翔太が眉をひそめて追いかけようとした、その袖を――横から沙梨がそっと掴んだ。
「翔太、大丈夫だよ。希美さん、あなたに拗ねてるだけ」
「長くても三日。絶対また夏川家に戻るよ。あなたから離れられないもん」
翔太はそれを信じたように足を止め、怒りも少し薄れた。
希美はふたりを無視してエレベーターへ向かう。
扉が閉まる直前、遠くで翔太が沙梨の手を振り払うのが見えた。
会社に着くなり辞表を提出し、引き継ぎと後始末を一気に片づけた。気づけば午後。
時計を見る。ちょうど日向の下校時間だ。
どれだけ翔太と拗れても、子どもに罪はない。自分の身から生まれた肉なのだから。
……たとえ、父親そっくりでも。
園の門へ着いたとき、まだ園児たちは出ていなかった。車内で待つ。
けれど全員が帰り、最後の子まで消えても、日向だけが見当たらない。
美術の先生が気づき、驚いた顔をした。
「夏川日向くんのお母さん? お迎えですか? 今日は中二組の先生がお休みで、午後は早帰りだったんですよ」
希美は息を呑み、礼だけ言ってすぐ翔太に電話をかけようとした。
そのとき、沙梨のSNS投稿が目に入った。
日向がカメラに向かってデコスを掲げている写真。
『うちの生意気な子とデコス~!』
胸の奥に怒りが跳ねる。
保護者グループを開こうとして、希美は気づいた。――自分はすでに退会させられていた。
位置情報を確認し、アクセルを踏み込む。
店に近づく前から、日向の屈託ない笑い声が聞こえた。
「ぼく、沙梨おばさんが一番好き! いつ引っ越してきて一緒に住むの? あのババアも追い出そうよ!」
子どもに怒鳴りたくない。希美は感情を押し殺し、笑顔で歩み寄る。
「日向。今日はお休みなら、ママに言ってくれたらよかったのに」
だが日向は眉をひそめ、露骨な嫌悪を向けてきた。
「くさい女! 力があるからって家でぼくを叱ってばっか! あれするな、これするなって!」
「外でも沙梨おばさんをいじめるし!」
そう叫びながら駆けてきて、いちばん大事にしているウルトラマンの玩具で、希美の太ももを何度も叩きつける。
どん、どん、と痛みが響く。
「沙梨おばさんをいじめたら、ぶっころす!」
「保護者グループも、ぼくが退会させた! 先生に頼んで、沙梨おばさんを入れてもらうんだ!」
その瞬間。
六年育てた、半分大人みたいな子を前に、希美は言葉を失った。
雨の日にウォーターパークへ連れていかなかっただけ。虫歯だからと飴を止めただけ。
それだけで、彼の中で彼女は「極悪人」になっていた。甘やかす沙梨が、新しい「好きなママ」。
怒りも悲しみも喉の奥へ押し込み、希美はしゃがみ、子の頬を両手で包んだ。
声はまっすぐで、痛いほど優しい。
「日向。……じゃあ、ママがいじめられたら?」
日向は迷いなく変顔をし、手に握っていたフライドポテトを希美の顔へ投げつけた。
「沙梨おばさんの言ったとおり! ママって、この世で一番かわいそうぶる女だ!」
