第4章 お前は本当に立派だな
夏川日向の幼い顔には、年齢にそぐわない嘲りが張りついていた。ぼんやり立ち尽くしていた希美を、手のひらでぐいと押し倒すと、ぱたぱたと数歩で伊藤沙梨のもとへ駆けていく。
「沙梨おばさん、こわい! あれ、こっち来る! 追い払って!」
伊藤沙梨は流れのまま日向を抱き寄せ、わざとらしく嗜めた。
「日向、押しちゃだめ。失礼でしょ?」
口ではそう言いながら、希美を見る目には、隠しもしない挑発と嘲笑が浮かんでいる。
――ほら。あなたが十月十日かけて産んだ息子でも、結局は私の味方。
そう突きつけられた気がして、希美は手首と胸の奥が同時にずきりと痛んだ。息が、乱れる。
希美は目を閉じ、荒れかけた感情を押し沈める。低く、しかしはっきりと言った。
「日向。こっちに来て。帰るよ」
日向はちらりと希美を見ただけで、さらに沙梨にしがみつく。
「やだ! ババアと帰らない! 沙梨おばさんといる!」
希美はゆっくり立ち上がる。目を逸らさず、言葉を区切った。
「もう一回言う。日向、帰るよ」
その視線に、日向の喉が小さく鳴った。理由のわからない不安が胸をかすめ、抱きつく腕がほんの少し緩む。
それを感じ取った伊藤沙梨が、すぐさま日向を抱え直し、わざと論点をすり替えた。
「希美さん。今日のことは日向のせいじゃありません。抱っこしてって言ったのも私だし、保護者グループに入れたのも私。今日お休みだってあなたに言わないようにしたのも私。叱るなら、私を叱ってください。日向に当たらないで」
雛を守る母鳥みたいに、日向をぎゅっと抱く。その姿はまるで、希美が猛獣か何かみたいだった。
希美は怒りで笑いそうになり、冷たく問い返す。
「伊藤さんは、どの立場でそれを言ってるの? 夏川翔太の愛人?」
「まだ私たち、離婚してないよね。もう堂々と家に入り込んで、私の子の躾までしてくれるの?」
刺さる言葉に、伊藤沙梨の笑みが一瞬だけ崩れかけた。
怨念がちらりと覗く。だが次の瞬間、沙梨はそれを引っ込め、今にも泣きそうな顔を作った。
「希美さん……どうしてそんな言い方をするんですか。私たちに、やましいことなんて何もないわす。どうしてそんな、汚い発想で見てくるの……」
「それに、私はただ日向が好きなだけ。どうしてわざと、彼の前で私を貶めるんですか……?」
涙がつうっと頬を伝い、本当に被害者みたいに振る舞う。
その涙を見た日向が、ぷつんと切れた。希美に向かって歯をむき出す。
「悪女! ババア! 沙梨おばさん泣かせた!」
「ぼくは沙梨おばさんが好き! あの人は、ぼくの嫌なこと無理やりやらせないもん!」
「出てけ! 顔も見たくない!」
刃物みたいな言葉が突き刺さり、希美の足元がぐらりと揺れる。
希美は日向を見た。別の女へ媚びるみたいに笑うその顔を見て、目の奥がつんと熱くなる。
六年育てた。……それなのに。
夏川翔太の裏切りよりも、自分の体から生まれた子が、ここまで自分を嫌い、憎むことのほうが――耐え難い。
希美は深く息を吸い、声を震わせないように言った。
「日向。本当に……ママと帰らないの?」
日向は眉を寄せ、不機嫌さを隠しもしない。
「帰らない! しつこい! 何回聞いても同じ! 絶対、帰らない!」
突き放す言葉が、希美の最後の期待を叩き砕いた。
希美は、寄り添うふたりを一度だけ深く見て、何も言わず背を向けた。
――この恩知らず。もういい。
日向は、彼女の背中を見送るうちに、胸の奥に名前のない感情がじわりと広がった。だがすぐに振り払う。
いなくなったほうがいい。沙梨おばさんと過ごす邪魔をしないから。
いなくなれば、毎日「あれはだめ」「これはだめ」って縛られない……。
デコスを出た希美は、胸に石を詰められたみたいに苦しかった。
そのときスマホが鳴る。夏川家の祖母からだ。
迷った末に通話をつなぐ。
「希美……」
穏やかだが、焦りを含んだ声。
「大丈夫かい?」
胸が少し温まる。希美はやわらかく返した。
「大丈夫です、おばあちゃん。ご心配なく」
「そうか。それならいい」
祖母はほっとしたように続ける。
「今夜、パーティーを開くよ。翔太と一緒に戻っておいで。私が生きている限り、誰にもお前をいじめさせない」
それは、希美にとって確かな盾だった。
離婚のことを切り出そうとして――向こうで、激しい咳が始まる。
希美の顔色が変わる。スマホを握る指に力が入った。
「おばあちゃん、お身体……大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。持病だよ」
息を整えた声が、どこか疲れている。
「いいね。今夜は必ず来るんだよ」
重い響きに、言いかけた言葉を希美は飲み込んだ。
「……はい。行きます」
月が枝先にかかり、山の上の別荘が静かに煌めいていた。
外には車がずらり。中ではグラスが鳴り、笑い声が弾んでいる。
希美は素白のドレスをまとっていた。裾には小さな真珠が散りばめられ、歩くたび、さらりと揺れてきれいだった。
リビングを行き交う人波を眺めているだけで、体力が削られる。
そのとき、見慣れた背中が目に入った。
「夏川翔太! 待って!」
背の高い影が止まり、振り返る。近寄りがたい顔。
「……何だ」
その冷たさに、希美はわずかに目を見張る。
今までは、祖母の前ではどれだけ嫌っていても、最低限は取り繕っていたはずなのに。
希美が言葉を探している間に、翔太が不機嫌そうに言った。
「希美。まさか、もう後悔したのか?」
「……何が?」
迷う希美に、翔太は嘲るような目を向ける。
「離婚だと言い出したのもお前、追いかけてきたのもお前。俺をからかって楽しいのか?」
希美はようやく理解して、首を横に振った。
「誤解よ。おばあちゃんの身体がよくないから、離婚の話は今はしないでって言いたかっただけ」
「……それと。離婚は、撤回しない」
まっすぐ言い切る。
翔太の顔が、信じられないというふうに固まった。
その瞬間、二階から厳かな声が降ってくる。
「本日皆さまに集まっていただいたのは、ひとつお伝えしたいことがあるからです……夏川家の若奥様は、希美ただ一人」
祖母が使用人に支えられ、二階の手すりに立っていた。気迫は衰えない。
「外の野良猫や野良犬など、私が生きている限り、夏川家の門はくぐらせません」
パーティー会場が、すん……と静まり返る。視線が一斉に希美へ刺さった。
翔太もそれにつられ、胸の疑念がすっと消える代わりに、騙された怒りが燃え上がる。
彼は希美の手首を掴み、角へ引きずり、壁へ叩きつけた。
「希美。離婚だと言いながら、おばあちゃんで俺を押さえつけるのか。口と腹が違うにもほどがある!」
