第5章 私のマネジャーに何をするつもりだ
男の顔は、苛立ちと怒りで歪んでいた。
「希美。おばあちゃんが味方なら、何でも通ると思うなよ。俺は――」
「夏川翔太、頭がおかしいなら病院行け。ここで騒ぐな!」
希美は乱暴に手を引き抜いた。夏川翔太を見返す瞳には、温度が一滴もない。
「今日のことは、私は何も知らない。さっき言ったことも本心」
「信じないなら、勝手にして。狂犬みたいに噛みつくのはやめて。あなたの八つ当たりに付き合う時間も義務もない」
言い捨てると、希美はくるりと背を向けた。未練のかけらもなく、そのまま歩き去る。
夏川翔太は彼女の背中を見つめ、瞳の奥にどろりと怒りを溜めていく。
……いい。上等だ。
希美。よくも、そこまで――。
希美は夏川翔太の癇癪など最初から相手にしない。パーティー会場へ戻ると、何事もなかった顔で微笑み、客たちと当たり障りなく言葉を交わし続けた。
ようやくお開きになるや否や、タクシーを拾って帰宅し、必要な私物だけをまとめる。六年住んだ家を、迷いなく出た。
六年。
そろそろ、解放されてもいい。
……
三日後。
希美はスマホ画面に並ぶ文面を見て、眉間をきゅっと寄せた。
『申し訳ありませんが、採用基準に合致しませんでした』
迷った末、理由を聞こうと電話をかける。
向こうはしばらく沈黙し、早口で言った。
「市川さん、私も指示で動いているだけでして……ほかを当たってください」
「指示……?」
聞き返すより先に、通話は切れた。
希美は目を細める。嫌な予感しかしない。
ほかにも何社かに電話を入れたが、返事は濁されるか、名前を告げた瞬間に切られるかのどちらかだった。
中には小声で忠告してくる人までいる。
「……どこかで、誰かを怒らせました? 夏川グループの名前が出てましたよ」
鈍い彼女でも理解できた。
――夏川翔太に、干された。
希美は思わず笑いそうになり、唇を噛む。
干されたら生きていけないとでも思ってるの?
世界に仕事は、マネージャーだけじゃない。
眉間を揉み、求人サイトを開こうとした、そのとき。
スマホがぶるぶる震えた。
「もしもし、市川さんでしょうか。西村智也さんの事務所のアシスタントです。履歴書を拝見しました。よろしければ、うちで働いていただけませんか」
西村智也。
希美の脳内で情報が一気につながる。夏川翔太と長く仕事を奪い合っていた、売れっ子になりきれない実力派――そんな評判の男。
指先が止まる。念のため、確認した。
「……本当にいいんですか? 私、夏川翔太の元マネージャーですよ」
「もちろんです。うちは能力重視ですから。市川さんのお返事は?」
「問題ありません。面接はいつですか」
「面接は不要です。明日から来てください」
「分かりました」
通話を切り、暗転していく画面を見つめる。
夏川翔太を恐れず雇う人間が、まだいる。
現実味がなくて、胸の奥がふわりと浮いた。
――なら、期待は絶対に裏切れない。
希美はブラウザで西村智也を検索し、ざっと情報を流し読んだ。
……
翌日。
希美は時間どおりにスタジオへ出勤した。
指定フロアに着くなり、大学生みたいな格好の女の子が駆け寄ってくる。
「市川さん! お待ちしてました。行きましょう、社長のところへ!」
状況を飲み込む間もなく、オフィスへ押し込まれる。
ドアが開いた瞬間、希美は目を奪われた。
椅子に座る男が、長い脚を机に投げ出し、だらしなく組んでいる。態度は気ままで、空気は図太い。
顔を上げた男は、非の打ち所のない美形だった。
西村智也――本人。
挨拶の言葉を探すより早く、彼は顎でローテーブルを指す。
「契約書はそこ。問題なければサインして」
希美はその即断即決に面食らいながらも、書類を開いて素早く確認する。妙な条項も、引っかかる上乗せもない。署名した。
ペンを置いた瞬間、頭上から冷たい声が落ちる。
「まさか夏川翔太の敏腕マネージャーが、追い出される日が来るとはな」
顔を上げると、いつの間にか西村智也が背後に立っていた。長い腕が伸び、契約書をひょいと持っていかれる。
希美は眉を寄せる。
「私は自分で辞めました。クビじゃありません」
「へえ」
西村智也は適当に相槌を打ち、契約書を引き出しに放り込み、そのままさっさと歩き出した。
「行くぞ。あとでオーディション」
言い返したい言葉が喉に詰まる。だが相手は雇い主だ。希美は飲み込んだ。
……
アルカナ・スタジオ。
希美は、周囲と器用に談笑する西村智也を横目に、仕事の意義を疑い始めていた。
……この人、マネージャーいらなくない?
「何考えてる」
不意に大きな手が伸び、希美の持っていた水を奪った。西村智也はそのまま喉を鳴らして飲む。
近くで見ると、ますます整いすぎている。輪郭、鼻筋、薄い唇――完璧すぎて腹が立つくらいだ。
半日付き添っただけで分かった。
彼は希美にだけ棘がある。ほかには礼儀正しい。オーディションの演技も悪くない。
それなのに、ずっとくすぶっている。どう考えてもおかしい。
希美は迷いながら言った。
「西村智也……あなた、誰か怒らせたんですか」
西村智也の手が止まった。冷たい視線が希美を刺す。
「俺が誰を怒らせたか、お前が一番分かってるだろ」
「……え?」
希美はぽかんとして首を傾げる。
その顔が癇に障ったのか、西村智也は苛立ったように希美の頭を手のひらで押さえつけた。
「希美。知らんふりしたら許すと思ったか。俺はお前に三年も仕事を奪われたんだぞ。よくも『誰を怒らせた』なんて言えるな」
三年。仕事。
希美は目を見開く。
「……あなたが、夏川翔太と三年争ってた人?」
「今さら気づくな!」
西村智也の苛立ちは加速する。三年も争って、相手は自分の名前すら覚えていなかった――屈辱にもほどがある。
押さえる力が強くなり、希美がもがいた、そのとき。
手首が、ずきりと痛んだ。
次の瞬間、背中が壁に叩きつけられる。息が止まるほど痛い。
「希美! どこまで卑しいんだ! 男がいないと一日も持たないのか!」
怒鳴り声が頭上から降り注いだ。
希美は混乱して顔を上げる。
そこにいたのは、怒りに染まった夏川翔太。
希美は眉を寄せ、距離を置いた声で言った。
「夏川さん。言葉を慎んでください」
その疎遠さが刺さったのか、夏川翔太の指がさらに食い込む。眉目は凶暴に歪んだ。
「離婚したいのは、こいつのためか?」
「夏川翔太、何言ってるの!」
手首が砕けそうで、希美は必死に抵抗する。
「それに今の私は、西村智也のマネージャーです。汚い想像で人を測らないで!」
言い終えた瞬間、夏川翔太の動きがぴたりと止まった。
そして、裏切られたみたいな顔になる。
「……お前、あいつのマネージャー? じゃあ俺は? 希美、誰が許した。俺のマネージャーが、どうしてあいつの――」
希美は笑いそうになった。
「私が何をしようと、あなたに報告が必要ですか。夏川翔太、自分の立場をわきまえて」
さらに身をよじると、手首を掴む力がふっと緩んだ。
その瞬間、背後へ引き寄せられる。
「――夏川さん。俺のマネージャーに、何をするつもりだ」
