第5章
神代史人は気まずそうに軽く咳払いをすると、教科書を私に押し付け、視線を窓の外へと逸らした。
先ほどの言葉の口調と雰囲気が少しばかり柔らかすぎたせいか、彼は照れているように見えた。
「お前、頭、水にでも浸かってイカれちまったのか?」
彼は自分の金髪を指でつつきながら言った。
「何が『また』だ、俺たちは別に親しくもねえだろ。俺は正真正銘の不良で、お前は模擬試験で神代良佑を抑えてトップに立つほどの優等生なんだぞ」
彼は一拍置いてから、声を潜めた。
「上村先生がお前のその言葉を聞いたら、絶対に俺の頭を定規でぶん殴るに決まってる!」
私はその情報を黙って記憶に刻んだ。神代史人と上村先生は仲がいい、と。
前の人生では、上村先生が数少ない私によくしてくれた先生の一人だということしか知らなかった。彼と神代史人の間に繋がりがあったなんて、思いもしなかった。
彼らが反応するよりも早く、私は不意に振り返ると、私をいじめていた主犯格の女子生徒の前まで歩み寄った。
私が近づいてくるのを見て、彼女の瞳に一瞬、軽蔑の色が浮かんだ。
私は立て続けに彼女の頬を数発ひっぱたいた。
パン、パン、パン。
乾いた音が、廊下にいつまでも響き渡った。
神代史人を含め、その場にいた誰もが呆然としていた。女子生徒は顔を覆い、信じられないといった様子で私を見つめている。
「私の鞄には、一本のナイフが入っているの」
私は静かに言った。声はとても小さかったが、そこにいる全員にはっきりと聞こえた。
「私には元々何もない。だから、何を失うことになっても構わない」
神代良佑はかつて、私のことを『静かな狂人』と呼んだ。
それは私が、彼と彼の『高嶺の花』である若葉を庇って刃物で刺された後のことだ。
「てめえは普段どんなに平静を装っていても、根っこはやっぱりただの狂人じゃねえか!」
神代良佑は当時、目を真っ赤にして私を罵った。
あの時の私は、神代良佑を神代史人だと思い込んでいた。だから、彼を守らなければならなかった。
たとえ、その代償が私自身の命であっても。
現実に戻ると、神代史人は悪態をつき、素早く私を自分の傍へと引き寄せ、あの女子生徒から引き離した。
「てめえ、どこからナイフなんか手に入れたんだ?」
彼は声を潜めて私を問い詰めた。
「お前のナイフは俺が取り上げたはずだろ?」
「あなたがくれた指輪で買いました」
私は平然と答えた。
「はあ?」
神代史人は声を荒らげた。
「あれは何か食いもんでも買えって渡したんだ! ナイフを買えなんて言ってねえ!」
私は彼を見上げ、初めて心の内の言葉を最後まで口にした。
「私は、あなたが思っているような優等生ではありません。小さい頃から両親に殴られ罵られ、同級生にはいじめられてきました。私の頭は常に張り詰めていて、いつか些細なことで壊れて、完全に崩壊してしまうかもしれないんです」
「だから、神代君」
私は恐る恐る、彼の制服の裾を掴んだ。
「あなたの後について行ってもいいですか?」
彼の後について行きたい。そして、彼を守りたい。
でも、彼に嫌われたくはなかった。
小山をはじめとする不良たちが囃し立て始める。
「史人、このパシリをもらっとけよ!」
「宿題やってもらえていいじゃねえか!」
神代史人はしばし沈黙し、最後にただ一言だけ言った。
「次はないぞ」
彼は屈んで私の鞄を拾い上げると、ファスナーを開けて中を覗き込み、案の定ナイフを見つけた。
彼はちっと舌打ちをすると、ナイフも教科書も鞄に押し戻して私に返した。
「三度目に会った時、答えを教えてやる」
彼はそう言うと、背を向けて去っていった。金色の髪が、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
