第1章

早希の視点

 私の夫は今、私の遺体を解剖している。

 解剖室の天井付近を漂う私の魂は、克人がゴム手袋をはめ、見る影もなく損壊した私の亡骸を覗き込む姿を冷ややかに見下ろしていた。

 硫酸で焼かれた私の顔は黒焦げの陥没と化し、白骨が薄らと覗いている。全身には鈍器で殴打された無数の青痣と刃物による裂傷が走り、最も深いものは鎖骨から腹部へと達していた——犯人はそこに、丸五回も刃を突き立てたのだ。

「酷いな……」助手の佐々木が息を呑んだ。

「この女性、一体どれほどの目に」

「高濃度の硫酸による顔面損壊。多発性骨折。出血性ショック」克人の声には何の抑揚もなく、その眼差しはひたすらに集中して冷徹だった。

「犯人は、最も苦痛を長引かせる殺し方を熟知しているな」

 私は酷く苦い思いで彼を見つめていた。

 彼の一筋の髪への視線は素通りだった。そのアッシュグレーの髪は、先週の土曜日に二人で染めに行ったばかりのものだ。あの時、彼は私の手を握りながら、この色は秋の陽射しみたいでお前に似合う、と言ってくれたのに。

 その髪の束は彼の目の前に横たわっているというのに、彼は一瞥もくれようとしない。

「頭蓋骨の復顔技術を使えば、顔面を再現できるかもしれません」佐々木が提案した。

「そうすれば身元が判明するかも」

「鑑識課に連絡しろ。最優先で処理を」克人は頷き、事務的に指示を出した。

『最優先で処理を』

 なんという皮肉だろうか。三日前、私が電話越しに絶叫して助けを求めた時、彼が放った言葉は——『いい加減にしろ早希、芝居はもうやめろ』だったのだ。

 あの雨の夜の記憶がフラッシュバックし、鋭利な刃となって私の意識を深く抉った。

 私は駐車場からミニバンに引きずり込まれた。覆面の男にナイフを喉元に突きつけられ、車内には消毒液と血の匂いが充満していた。私は最後の力を振り絞って、克人に電話をかけたのだ。

「克人! 助けて! 殺される!」

 電話の向こうからは、騒がしい音楽と笑い声が聞こえてきた。

「いい加減にしろ早希、芝居はもうやめろ」彼の声は氷のように冷酷だった。

「冷戦状態を終わらせたいなら、卯月に謝りに行け。お前が彼女にしたことの埋め合わせだ」

「お芝居なんかじゃない! 本当に誰かが——」

 ツー、ツー、ツー。

 電話は一方的に切られた。

 覆面の男が獰猛な笑みを浮かべてのしかかり、冷たい刃が私の喉を切り裂いた。生温かい血が噴き出し、意識が闇に沈む直前、私の脳裏に浮かんだのはたった一つの思いだった。

 ——克人、いつか必ず後悔するわ……私たちを救わなかったことを……

「星村先生」佐々木の声が私を現実に引き戻した。

「この事件、先月の連続殺人事件と関連があるんでしょうか?」

「手口が酷似している。その可能性は極めて高いな」克人はピンセットで私の傷口を調べながら答えた。

「だが、今回はさらに残忍だ」

 ——さらに残忍。

 ええ、そうよ。だって今回死んだのは、あなたの妻なのだから。克人。

 あなたはまだ、何も知らない。

 真実を知った瞬間、あの永遠に冷静沈着なあなたの顔がどんな風に歪むのか、是が非でも見てみたいわ。

 夜の帳が下りてもなお、克人は解剖室に残って作業を続けていた。血の飛沫を浴びたサージカルガウンを脱ぎ捨て、ひどく疲れた様子でこめかみを揉みほぐす。

 佐々木は器具を片付けながら、壁の時計に目をやった。

「星村先生、もう夜の八時ですよ。デリバリーでも頼みましょうか?」

「いや、いい」克人は淡々と返し、スマホの画面に視線を落とした。

「もう少し待つ」

 佐々木は少し躊躇い、恐る恐る尋ねた。

「奥様からの差し入れをお待ちなんですか? でも、奥様はもう四日も姿を見せていませんが」

 克人は動きを止め、何も答えなかった。

「以前はどんな悪天候でも欠かさずいらしてたのに」佐々木は言葉を継いだ。

「去年の冬の大雪、覚えてますか。P市全体が交通麻痺に陥ったっていうのに、奥様はわざわざ先生に温かいスープを届けてくれたじゃないですか」

 宙を漂う私の心臓が、誰かに鷲掴みにされたように痛んだ。

 あの日、私は雪道の中を二時間も車を走らせた。側溝に滑り落ちては自力で這い上がった。解剖室に辿り着いた時には全身ずぶ濡れで、手はガタガタと震え、保温ボトルすらまともに握れない有様だった。それでも克人は私をきつく抱きしめ、『馬鹿だな、こんな危ない日に来るなんて』と囁いてくれたのだ。

 あの時、私は自分が彼の人生で一番大切な存在なのだと信じて疑わなかった。彼が私を必要としてくれるなら、どんな吹雪の中だって駆けつける覚悟があった。

 知らなかったのだ。私の身を粉にした献身のすべてが、卯月の一本の電話にも劣るものだったなんて。

「喧嘩したんだ」克人がようやく口を開いた。

「冷戦中だ」

「ああ……」佐々木は言い淀んだ。

「言いたいことがあるなら言え」克人は視線を上げた。

「どうせ病院中で噂になってるんだろ?」

「いえいえ」佐々木は慌てて手を振ったが、少し間を置いた後、やはり堪えきれずに進言した。

「その……先生から歩み寄って話し合ってみてはいかがでしょうか。奥様は本当に先生を大切にされています。僕もここで研修を始めて三年、数多くのご家族を見てきましたが、奥様ほど愛情深い方はいらっしゃいませんよ」

 克人は鼻で笑った。

「お前は、あいつがどれだけ理不尽に騒ぎ立てる女か知らないだけだ」

 私の魂は激しく震えた。

 理不尽ですって? 克人、卯月が深夜に電話をかけてきて『寂しい』と泣きついた時、あなたは二つ返事で家を飛び出したじゃない。私が引き留めて『どうして』と尋ねたら、あなたは私のことを思いやりがないと責め立てた。あなたたちのメッセージのやり取りが、私たち夫婦の会話よりも遥かに多いことに気づいた時も、私の被害妄想だと一蹴した。私が泣きながら、一体私のことを何だと思っているのと問い詰めた時も、あなたは私が同情を引くための芝居をしていると言い放ったのよ。

 七年。それが、七年間連れ添った夫婦の絆に対するあなたの結論なの?

 解剖室は静寂に包まれ、時計の秒針がチクタクと時を刻む音だけが響いていた。

 五分後、扉が静かに押し開かれた。

「克人さん、また夕食抜いてるんでしょう?」

 早野卯月——私の異母妹が、保温ランチボックスを手に立っていた。その微笑みは、春のそよ風のように柔らかく優しい。

 克人が顔を上げると、疲労の色が濃い顔にふっと笑みが浮かんだ。「卯月、外は雨が降っているのに、どうして」

 佐々木は気を利かせて解剖室を後にした。

「お姉ちゃんが四日も来てないから、ご飯を抜いてるんじゃないかって心配になっちゃった」卯月がランチボックスを開けると、パスタの湯気がふわりと立ち昇った。

「克人さんの大好きなミートソースよ」

「やっぱり君は優しいな」克人はフォークを受け取り、ため息をついた。

「誰かさんとは大違いだ。ちょっとしたことですぐに癇癪を起こす」

 卯月は一瞬動きを止め、その瞳の奥で何かがきらりと光ったが、すぐにまた心配そうな表情を取り繕った。

「お姉ちゃん……まだ怒ってるのかな?」

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