第2章

オフィス。

瀬戸北斗は、指先で軽い社員証を挟み、眉間にわずかな皺を刻んだ。

伏せた視線が、社員証の名前へ落ちる。そこに印字された文字を、ゆっくり区切って読み上げた。

「保、坂、心、月?」

昨夜の絡み合う記憶が、容赦なく脳裏へ突き刺さる。

女の肌にまとわりついていた鸢尾花の香り。冴えていて、どこか癖になる――いまも鼻先に残っている気さえした。

立花楓の喉仏が、無意識に上下する。苛立ちにネクタイを引き、シャツのボタンを二つ外した。

スマホの画面を指先で叩き、助理へ短く送る。

――調べろ。

あの女のことを、すべて。徹底的に。

一方その頃。

立花柊は顎が胸に埋まりそうなほど俯き、息を殺していた。

眼鏡の奥の睫毛が激しく震える。心の中で数を数えた。

一、二、三……。

足音が近づき、立花楓が目の前で止まる。

心臓が跳ね上がった。

圧のある視線が降ってきて――次の瞬間、それは彼女を通り越し、隣の保坂心月の顔へ落ちた。

「保坂嬢。社長室までお越しください」

保坂心月の足取りはふらついている。去り際に、立花柊を憎々しげに睨みつけることも忘れない。

立花柊は背中に冷や汗が伝うのを感じた。

よかった。瀬戸北斗には、私は気づかれていない。

だが緊張はほどけない。

保坂心月が連れて行かれた先を見つめ、胸の奥に沈むような不安が広がっていった。

立花楓は保坂心月を社長室の扉の前まで連れていき、何も言わずに手だけで「どうぞ」と示した。

保坂心月は訳も分からぬまま、恐る恐る扉を押し開ける。

もし「あの件」が露見したのだとしたら――坂東海峰との取引は昨夜だけじゃない。別の女インターンも酒に酔わせ、わざと置き去りにした。あの男は当然のように手を出した。

けれど、もう一か月も前の話だ。ずっと何事もなかったのに……!

「君が保坂心月か」

瀬戸北斗の淡々と低い声が響く。

長身で隙のない姿勢。深いグレーの手仕立てスーツが、広い肩と締まった腰を際立たせている。

机の向こうに座るだけで、近寄りがたい威圧が立つ。

保坂心月は脚が笑いそうになった。

気迫に呑まれ、唇を開いても言葉が出ない。顔色は真っ白で、震えが止まらない。

瀬戸北斗は目を細め、鋭い視線で机の上の社員証を指した。

「昨夜の相手は、君か?」

保坂心月のふくらはぎが震える。だが、すぐに理解した。

昨夜の慌ただしさで、立花柊と社員証を取り違えたのだ。

立花柊の様子からして、昨夜確実に誰かと寝ている。

この社員証がホテルの部屋に落ちたものだとしたら――それを拾った瀬戸北斗が、いま手にしているということは。

立花柊が一夜を共にした相手は、この「雲の上の社長」だ。

目の前に、天へ続く道が開けた。

掴むと決めれば、一気に人の上に立てる。

保坂心月は深く息を吸い、唇を結ぶ。迷いなく言った。

「……はい。私です」

声は甘く艶がある。昨夜の冷ややかな声とは、まるで別物だった。

瀬戸北斗は立ち上がり、彼女の前まで歩み寄る。

整った顔立ち。恥じらうような目。そこに浮かぶ熱。

その眼差しは、何度も見てきた。自分のベッドを狙う女たちの目だ。

瀬戸北斗の胸は、まったく波立たない。

その一方で、脳裏の「あの夜」はますます鮮明になっていく。

まるで釣り針のように、彼を引っ張り、離してくれない。

こんな感覚は、他の女では一度もない。

「選べ」

瀬戸北斗は息を整え、苛立ちを抑えた。

「俺の女になるか、金で終わらせるか」

保坂心月は腿を爪でつねり、上がりそうになる口角を必死で押さえた。

当たりだ。

選択肢など、考えるまでもない。

腕に絡みつこうとした瞬間、瀬戸北斗は数歩引いた。

そして無感情な視線で、顔を一瞥する。

警告だ。

保坂心月の笑みが凍る。

それでも言い切った。

「……あなたの女になります」

宝石、贅沢、衣食の心配のない生活。

すべてが魅力的すぎた。

社長室を出るころには、足元が綿のようにふわふわして、最初の恐怖は跡形もない。

階段の踊り場で、立花柊が待っていた。

「心月」

立花柊は放っておけず、焦って聞いた。

「何かあったの?」

保坂心月は上から下まで値踏みするように見て、社員証を取り違えてよかったと心底思う。

もし違っていたら、金のある暮らしを手にしたのは立花柊だった。

「別に。私、辞めるから。彼氏の家に住むの。もう放っておいて」

「……どうして?」

ユニバ・グループのインターン枠は、立花柊が頭を下げてやっと取った。

学歴も強くない保坂心月にとって、大企業に入れる貴重な機会のはずだ。

「関係ないでしょ!」

保坂心月は乱暴に立花柊を突き飛ばした。

「私がいい暮らしするの、気に入らないんだ? 私が家も人も失って、一生あんたとあのボロ賃貸で縮こまって生きてくれたら満足?」

立花柊は急所を刺され、頭が真っ白になった。唇を噛みしめることしかできない。

保坂心月は遠ざかっていく。

壁に手をつき、立花柊は体を支えるのがやっとだった。

どうすれば、両親を失ったことで心月が背負った痛みを償えるのだろう。

「立花ぁ……」

背後から男の手が伸び、肩を含みのある調子で叩いた。

振り返ると、坂東海峰と顔を突き合わせた。

粘つく視線が、毒蛇みたいに肌を這う。

「気分悪いなら、俺の部屋で休む?」

「大丈夫です」

吐き気を堪え、立花柊は平静を装う。

相手は直属の上司。ここで真正面から敵に回せば、ユニバに残れない。

だが坂東海峰は、彼女の拒絶など感じないふりをして、笑顔のまま手首を強引に掴んだ。

「座るだけだって。何もしないよ」

――するに決まってる。

立花柊は反射的に、いきなり嘔吐する素振りを見せた。

ブランド物を汚されたくない坂東海峰は、ぎょっとして手を離し、数歩後ろへ跳ねる。

その隙に、立花柊は両手を背中に回した。

「坂東部長、席で少し休めば十分です」

拒絶の姿勢を崩さず、目だけはまっすぐ。魚が死ぬまで噛みつく――そんな覚悟が滲む。

坂東海峰は老獪だった。得にならないと見るや、薄ら笑いで手を引っ込め、わざと肩をぶつけて去っていく。

完全に姿が消えて、ようやく息が漏れた。

触れられた場所が、気持ち悪くて痒い。

壁づたいに歩き出すが、張り詰めた神経が限界で、意識がふっと白くなる。

倒れかけた瞬間、背後から腕が伸び、しっかり支えた。

視界に映ったのは――瀬戸北斗。

立花柊の息が詰まる。下唇を噛み、必死に体勢を立て直す。瞳孔が震えた。

瀬戸北斗が立花楓に目配せすると、立花楓は頷いて坂東海峰の処理に向かう。

立花柊は視線を逸らし、焦りで体中が熱い。

空気に混じる、あの鸢尾花の香り。

それが瀬戸北斗の記憶の扉を、また乱暴にこじ開けた。

瀬戸北斗は眉をひそめる。

「……お前、誰だ?」

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