第6章

立花柊はびくりと肩を震わせると、慌てて社員に会釈し、小走りで瀬戸北斗のもとへ戻った。

「瀬戸社長、私にご用でしょうか」

慎重にそう尋ね、厚い前髪で顔の半分以上を隠すように俯く。

瀬戸北斗は、昨日立花柊が提出した企画案を引っ張り出し、彼女の目の前へ投げるように置いた。

「これ、作り直せ。終業までに俺のところへ出せ」

「承知しました」

差し戻しの書類を受け取りながら、立花柊は胸の内で小さく息を吐く。

踵を返した、その瞬間。

「待て」

瀬戸北斗が呼び止めた。

「ここでやれ。時間の無駄だ」

立花柊が離れれば離れるほど、鸢尾花の香りが薄れていく。

そのことに気づいてしまった瀬戸北斗は、またしても無意識に理由をこじつけて、彼女を引き留める。

「そこに座れ」

軽く咳払いし、適当に席を指してから、彼は何事もなかったように書類へ視線を落とした。

立花柊は指示どおり腰を下ろし、黒縁の眼鏡を押し上げる。

どうすれば瀬戸北斗が納得する形に持っていけるか――頭の中で組み立て直そうとした、そのとき。

場違いな着信音が鳴った。

新谷寒弥。

たぶん贈り物の件と、今夜の食事の確認だ。

よりにもよってこのタイミング。

静まり返った社長室の空気が、着信音ひとつで裂けた。

次の瞬間、氷みたいな視線が飛んでくる。

立花柊は首筋がぞくりと冷え、慌てて通話を切り、マナーモードに切り替えた。

圧が少し和らいだのを感じ、そっと瀬戸北斗を盗み見る。

彼は書類に集中していて、こちらを見ていない――そう思った。

立花柊は机の下にスマホを隠し、チャット画面を開く。

指先だけで素早く打った。

――上司の機嫌が悪そう。残業になるかも。今日は厳しい。

送信。

ほっとする間もなく、頭上から低い声が落ちてきた。

「立花柊」

いつの間にか、瀬戸北斗が目の前に立っていた。表情は冷え切っている。

「ひっ……」

立花柊は首をすくめ、スマホを取り落としそうになる。

瀬戸北斗は指の関節で机をトン、トンと軽く叩き、企画案の問題点をいくつか挙げた。修正の方向性も、短く的確に。

立花柊は胸の奥で息をつく。

――やっぱりこの人は、若くして社長の座にいるだけある。

刺さるところを一瞬で見抜き、霧を払うみたいに道筋を示す。さっきまで悩み抜いていた箇所が、嘘みたいにほどけた。

「……ありがとうございます」

ここからは一切よそ見しない。

真剣に修正へ没頭する。厚い前髪と大きな黒縁眼鏡で不器用に見えるのに、その手つきだけは無駄がない。

瀬戸北斗はその様子を眺め、冷えた表情をわずかに緩めた。

互いに黙々と仕事を進め、気づけば外はすっかり暗い。

「ぐぅぅ……」

腹の虫が、情けない音を立てた。

立花柊は慌ててお腹を押さえ、瀬戸北斗の横顔をちらりと見る。立ち上がる勇気はない。

とっくに終業時間は過ぎている。だが社長がまだ机に向かっているのに、自分だけ先に帰れるわけがなかった。

小さくため息を飲み込み、泣きたい気分のままキーボードを叩き続ける。

瀬戸北斗は、彼女の小さな動きをすべて見ていた。

時計へ目をやる。確かに遅い。

彼は立ち上がり、立花柊の机へ歩み寄ると、指で二度、机を叩いた。

「上がれ。俺と飲み会に行く」

「八時開始だ。急げ」

言い終えると踵を返し、さっさと出ていく。

拒否権など、最初から用意されていない。

立花柊は呆然と立ち上がった。

――また酒避け役?

そう思ったが、何にせよ帰れる。空腹から解放されるだけでも救いだった。

お腹をさすりながら、小走りで瀬戸北斗の背を追う。

個室に入って、立花柊はようやく理解した。

昨日の晩餐会とは違う。今夜は瀬戸北斗の私的な集まりだ。

室内にいるのは、瀬戸北斗の「身内」みたいな顔ぶれ。

服も所作も、何もかもが別格。明らかに同じ世界の人間だ。

そこにいる立花柊だけが、ひどく場違いだった。

「ボス、やっと上がったか。待ちくたびれて腹ペコで死ぬとこだった」

茶色い巻き髪、大きな丸い目。

笑いながら手を振る青年は、瀬戸北斗の冷たさとも、石黒延司の艶っぽさとも違う――甘い顔立ちだ。

立花柊は言葉を探し、遅れて思い出す。

季原家の一人息子、季原青陽。

季原青陽は瀬戸北斗の背後にいる立花柊を見つけると、すぐに面白がった。

「なるほどね。遅いと思ったら、未来の義姉さんの相手で忙しかったんじゃないの?」

「ボス、ほら入れ入れ! 未来の義姉さん、顔見せてよ!」

「くだらない」

瀬戸北斗は取り合わず、そのまま席につく。

季原青陽は期待満々で覗き込んだ。

だが立花柊の地味な服装、厚い前髪、黒縁眼鏡を見た瞬間、顎が落ちかける。

――ボス、こういう系統なのか?

誤解が怖くて、立花柊は慌てて頭を下げた。

「誤解です。私は瀬戸社長の秘書です」

「秘書?」

季原青陽の眉が上がる。

瀬戸北斗は女に興味がない。仕事と私生活もきっちり分ける。そんな男が、女秘書を私的な場に連れてくるなどあり得ない――そういう顔だ。

けれど空気を壊さず、へらりと笑って言う。

「じゃあさ、隠してる義姉さんはいつ連れてくるの? いないとか言わないでよ。聞いてるんだって」

瀬戸北斗は酒をひと口含み、冷たく目を流した。

「その口、また痛い目に遭いたいのか」

季原青陽は背筋がひやりとし、即座に口を閉じた。

宴が始まっても、季原青陽はすぐ落ち着かなくなる。

瀬戸北斗がこの地味な秘書を連れてきた理由が、気になって仕方ない。

だから瀬戸北斗ではなく、立花柊へ酒を勧め始めた。

立花柊は二度と酔いたくない。まして瀬戸北斗の目の前でなど。

「い、いえ……私、お酒弱くて……」

その言葉に、隣の瀬戸北斗が杯を持ったまま横目で見た。眉が寄る。

「……飲み過ぎたら、俺が手を出すのが怖いのか?」

個室の空気が、ぴたりと止まる。

集まる視線が微妙に熱を帯びた。

立花柊は乾いた笑みでやり過ごそうとして、勢いのまま口を滑らせた。

「瀬戸社長、誤解です」

そして、よりにもよって続けてしまう。

「私が酔ったら……瀬戸社長に手を出すのが怖いんです」

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