第7章
「お前が?」
瀬戸北斗は鼻で笑い、グラスを差し出した。
「安心して飲め」
立花柊は返す言葉もない。まさか人前で、前に酔って記憶を飛ばしたとき、本当に瀬戸北斗と寝てしまった――などと白状できるはずもなかった。
皆の視線を浴びながら、彼女は泣きそうな顔でグラスを受け取り、そのまま一気に飲み干す。
「いいぞ!」
季原青陽が上機嫌に声を上げた。
そこから先は、もう歯止めが利かなかった。
宴が終わる頃には、立花柊はすっかり意識を失い、またしても酒で記憶を飛ばしていた。
視界がふっと暗く沈む、その直前。
脳裏に最後に焼きついたのは、瀬戸北斗の冷ややかな横顔だった。
「……ん」
立花柊はゆっくりと目を開け、ずきずき痛む頭を押さえた。
ひどい二日酔いだ。
気づけば、柔らかな大きなベッドの上。
しかも身につけている服は昨夜のものではなく、きれいに着替えさせられている。
「っ……!」
立花柊はがばっと身を起こした。
「起きたか」
低い声が落ちてきた。
見ると、瀬戸北斗がシャワールームから出てきたところだった。
腰にはゆるくタオルを巻いただけ。
濡れた髪先から落ちる雫が首筋を伝い、引き締まった腹筋をなぞって、そのままタオルの縁へ消えていく。
立花柊は反射的に両手で顔を覆った。
――うそでしょ。
――まさか、また?
酔って記憶をなくした勢いで、また瀬戸北斗に手を出したのではないか。
もし現場を押さえられていたら、もう終わりだ。解雇どころの話じゃない。
やっぱり酒なんて飲むものじゃない――!
瀬戸北斗は目を細め、そんな彼女を眺めていたが、やがて淡々と言った。
「勘違いするな。俺たちの間には何もない。服はホテルの女性スタッフに替えさせた」
それを聞いた瞬間、立花柊はあからさまに肩の力を抜いた。
ぱっと顔を上げ、心底ほっとしたように言う。
「よかった……!」
何もなかったと知って、そこまで安心するのか。
瀬戸北斗は髪を拭く手を止めた。
濡れた前髪をかき上げ、額をあらわにする。
まだ胸を撫で下ろしている立花柊を見て、彼は眸をわずかに暗くした。
「……完全に何もないわけでもない」
その一言で、立花柊の表情がぴんと強張る。
「瀬戸社長、それって……?」
「何一つ覚えてないのか?」
瀬戸北斗はタオルを脇へ放り、こちらへ歩み寄って眉を上げた。
立花柊は視線をさまよわせた。
彼の体つきがあまりにも整いすぎていて、とても正面から見られない。胸の鼓動ばかりがやけに大きい。
私、何を言ったの?
まさか本当に、瀬戸北斗に何かした……?
唇をきゅっと噛み、それでもおそるおそる顔を上げる。
「瀬戸社長……私、何を言ったんですか」
さっきまでは距離が近すぎて、ろくに意識していなかった。
だが今になって、瀬戸北斗ははじめて立花柊の素顔をきちんと見た。
厚い前髪も黒縁眼鏡もない。
野暮ったく見せていたそれらは、すべて彼女の偽装だったのだ。
ホテルのスタッフが身支度を整えたからこそ分かった。
そうでなければ、立花柊がこんな顔をしているとは、彼でも気づかなかっただろう。
「何も言ってない」
瀬戸北斗はあくまで平然と答えた。
そのまま間を置かず、さらに言い渡す。
「そのままでいい。今後はその格好で出社しろ」
立花柊ははっとしてスマホを取り出し、自分の姿を確認した。
案の定、前髪も眼鏡も消えている。
「……分かりました、瀬戸社長」
ここまで来たら従うしかない。
「始業は9時だ。洗面に使えるのはあと15分」
それだけ告げると、瀬戸北斗は彼女を一瞥し、さっさと背を向けて出ていった。
立花柊はようやく大きく息をつく。
どうやら昨夜、本当に取り返しのつかないことはしていないらしい。
完全に安心した彼女は、ベッドから飛び降りると洗面所へ駆け込み、猛スピードで支度を済ませた。
それから瀬戸北斗の後を追って部屋を出る。
廊下へ出たところで、ちょうど季原青陽と鉢合わせた。
「ボス、おはよう」
季原青陽はいつもの調子で声をかけ、瀬戸北斗の後ろにいる女を見て首をかしげる。
「ボス、その人誰?」
瀬戸北斗は冷たく一瞥しただけで、何も言わずにそのまま歩き去った。
残された立花柊は、足を止めて軽く頭を下げる。
「季原様、立花柊です。もう遅れそうなので、先に失礼します」
申し訳なさそうに微笑むと、すぐに瀬戸北斗のあとを追って小走りで去っていった。
「立花柊!?」
季原青陽は目を見開いた。
昨夜の、あの地味な女秘書――?
呆然と立ち尽くしたまま、遠ざかる二人の背中を見送る。
そして、妙に腑に落ちた。
――なるほど。
昨夜あれだけ酔って絡まれても、ボスが本気で怒らなかったわけだ。
会社へ着いた立花柊は、オフィスに入った途端、あちこちから視線を集めた。
室内が一瞬、しんと静まる。
「立花さん?」
女性社員のひとりが目を丸くする。
「えっ、全然分からなかった……そのほうがずっと綺麗じゃない!」
「ほんと、前よりずっといい感じ」
「こんな美人だったんだ……!」
口々に飛んでくる褒め言葉に、立花柊はたちまち包囲された。
気恥ずかしさに頬を熱くしながら何度も礼を言い、ようやく瀬戸北斗の執務室へ向かう。
入るなり、瀬戸北斗が顔も上げずに言った。
「バレンタインの贈り物は用意したか」
そこで立花柊は、今日がちょうどバレンタインデーだったことを思い出した。
幸い、頼まれた時点ですぐ手配してある。
「はい、もう準備できています。ご確認なさいますか」
「いらない」
瀬戸北斗は書類に署名を入れ、ようやく目だけを上げた。
「お前が直接届けろ」
立花柊は前々から、瀬戸北斗の恋人が気になっていた。
昨夜の席でも、季原青陽が彼の女嫌いぶりや仕事漬けの生活を散々語っていたからなおさらだ。
そんな男が選ぶ相手とは、一体どんな女なのか。
「承知しました」
彼女は軽く返事をして、執務室を出た。
まず高級ブランド店で贈り物を受け取り、そのまま瀬戸北斗の邸宅へ急ぐ。
本来なら届けて帰れば任務完了だ。さっさと引き上げても何の問題もない。
それでも立花柊は、あえてリビングで待つことにした。
受領の確認という名目もある。
何より、瀬戸北斗の好みにかなう女をこの目で見てみたかった。
だが、待てど暮らせど階段の上は静かなまま。
気配ひとつ降りてこない。
立花柊はソファに座っていたが、退屈になってくる。
とはいえ、今まさにその「彼女」が現れるかもしれないと思うと帰るに帰れない。
とうとう痺れを切らし、彼女は立ち上がって大きな窓の前へ移動した。
そこで庭を眺めながら、時間をつぶすことにする。
一方その頃。
保坂心月は先に立花楓から電話を受け、瀬戸北斗がバレンタインの贈り物を屋敷へ届けさせると知って、舞い上がっていた。
この前の夜の気まずさも屈辱も、もうどうでもよかった。
やはり瀬戸北斗の心には、自分の居場所があるのだ。
あの日はたまたま機嫌が悪かっただけ。
自分がもっと上手く振る舞えば、いずれ瀬戸北斗の心を完全につかみ、その妻の座にだって届くはず――。
そう思えば思うほど、胸は甘く高鳴る。
彼女は部屋で念入りにフルメイクを施し、何十着もの服を試した末にようやく納得のいく一着を選んだ。
入念に着飾ってから、裾をつまみ、弾む足取りで階下へ降りていく。
リビングのテーブルには、ピンクのリボンをかけられた上品なギフトボックス。
そして窓際には、人影がひとつ。
保坂心月はうっとりとした笑みを浮かべ、その贈り物のほうへ小走りに駆けていった。
