第8章

保坂心月は胸を躍らせて駆け寄った。けれどリビングに足を踏み入れた瞬間、頬に貼りつけていた笑みが、ぴたりと固まる。

床まで届く大きな窓の前に、瀬戸北斗の姿はない。

いるのは邸宅の住み込み家政婦、木下さんがガラスを磨いているだけだった。

――上であんなに時間をかけて支度したのに。全部、無駄。

心月はがっくりしながらも、ほんのわずかな期待にすがって訊ねた。

「木下さん。さっき北斗、帰ってきた? いまどこにいるの?」

木下さんは手を止め、振り返って丁寧に頭を下げる。

「瀬戸社長は朝からお出かけのままでして。まだお戻りにはなっておりません」

心月は眉をひそめ、テーブルの上のギフトボックスへ視線を落とす。

「じゃあ……これ、なに?」

「ああ、こちらは瀬戸社長が人に届けさせたものです」

木下さんは手を拭きながら説明する。

「先ほどまで、綺麗なお嬢さんがいらっしゃいましたよ。会社のご用があるとかで、先にお帰りになりました」

綺麗なお嬢さん――?

それなら、立花柊みたいな冴えない地味子じゃない。

心月の胸にあった不安が、すとんと落ちた。

ソファに腰を下ろし、少しだけ拗ねた気分のまま箱を開ける。値札を見た瞬間、目が飛び出しそうになった。

「……え、うそ……」

ゼロの数を数え直す。もう一度数えて、それでも信じられない。

さっきまでの失望なんて、霧みたいに消えた。

こんな高い贈り物を用意して、しかも家まで届けさせる。

瀬戸北斗の心の中には、ちゃんと自分がいる――ただ仕事が忙しいだけ。

心月は甘い幸福に浸りながら、贈り物を抱えて夢中で写真を撮りまくる。

いつか「瀬戸奥さん」になる日を、うっとりと想像しながら。

一方そのころ、立花柊は会社に戻り、そのまま業務に復帰していた。

本当は邸宅で待ち続けるつもりだった。だが立花楓から電話が入り、『瀬戸北斗が呼んでいる』と言われれば逆らえない。慌てて引き返すしかなかった。

瀬戸北斗の恋人に会えなかったのは残念だ。

でも、いつか会えるだろう――そう思いながら、気づけば社長室の前に立っていた。

瀬戸北斗はちょうどオンライン会議を終えたところで、立花柊が入るなり書類を抜き出し、投げるように渡してくる。

「この案、また直せ」

「はい」

立花柊は受け取り、すぐ作業に戻ろうとして、ふと贈り物の件を思い出した。

瀬戸北斗が視線だけ上げる。

「まだ何かあるか」

立花柊は、贈り物を届けたことを報告した。

けれど瀬戸北斗は想像していたような反応をまるで見せない。選んだ品が気に入ったかどうかも問わず、ただ冷たく告げた。

「分かった」

立花柊の胸に、小さな引っかかりが残る。

ただ、瀬戸北斗はもともと淡々としている。深く考えないほうがいい。

突き返された案を修正し、気づけば退勤時間。

今日は珍しく残業なし。立花柊は嬉しくなって荷物をまとめ、タクシーでレストランへ向かった。

昨日は残業で、新谷寒弥との食事を断ってしまった。だから今日は埋め合わせ。

それに保坂心月と話す機会がほしくて、寒弥に頼んで心月も呼んでもらっていた。

店に着くと、新谷寒弥はすでに席についていた。

久しぶりで、話は自然と弾む。だが心月だけが来ない。

立花柊が不安になり、電話をかけようとした、そのとき。

「……遅い」

ようやく現れた心月は、数日で別人みたいだった。全身ブランド。髪もメイクも完璧。表情には傲慢さが貼りついている。

入ってくるなり、舌打ちするように「ちっ」と鳴らし、目に露骨な嫌悪を走らせた。

そして立花柊のほうは見もしないまま、寒弥にだけ微笑む。

「寒弥さん、最近病院忙しい?」

当然のように寒弥の隣の椅子を引いて座り、名の知れたバッグをテーブルに置く。

「まあな」

寒弥は立花柊の気まずそうな顔を見て、やんわり釘を刺した。

「心月。今日は柊のおごりだぞ。お前も呼んでくれって頼まれてな」

「へえ」

心月は興味なさげに鼻を鳴らす。

「だからか。入った瞬間、変な匂いした」

紙ナプキンを二枚、丁寧に敷いてから、その上にバッグを“見せつける”ように置いた。

「これ高いんだから。何百万もするの。汚れたら困る」

寒弥の眉がきゅっと寄る。だが立花柊が小さく首を振り、止めた。

そのバッグを見て、立花柊の心臓が跳ねる。

――今日、自分が瀬戸北斗の恋人へ届けた品と、まったく同じ。

思わず訊ねた。

「心月、そのバッグ……どこで手に入れたの?」

「彼氏がくれたに決まってるでしょ」

心月は新しいネイルに息を吹きかけ、横目で立花柊を見た。

「世界限定。わざわざ買ってくれたの。無制限の家族カードまでくれたし、最高」

立花柊は眉をひそめる。

「心月……その彼氏って、結局誰なの?」

「何それ」

心月の目が一気に尖る。

「変に詮索しないで。あんたに関係ないでしょ」

胸がちくりと痛む。

それでも立花柊は引けなかった。恩がある。放っておけない。身元も分からない「金持ちの彼氏」なんて、なおさらだ。

「心月……」

言いかけた瞬間、新谷寒弥が足でそっと立花柊の靴を蹴り、目で『やめろ』と合図する。

心月が苛立たしげに言う。

「なに」

立花柊は飲み込んだ言葉を丸ごと引っ込め、杯を手に取った。

「……いい彼氏ができてよかった。幸せが長く続きますように」

「当たり前」

心月は冷たく笑い、目の奥に暗い光を宿す。

「私って、生まれつき運がいいから」

――あの日、工牌が入れ替わって。

――それを、瀬戸北斗が拾って。

立花柊は小さく笑って、それ以上は言わなかった。

料理が運ばれ、立花柊は酒を注ぎ、取り分ける。

けれど心月は、立花柊が取ったものには一口も箸をつけない。挙げ句の果てに、どの料理も一口食べては顔をしかめ、「ここは格が低い」だのと文句ばかり。

立花柊は目を伏せ、唇を噛んで痛みを押し込み、取り分けるのをやめた。

そして最後の皿が運ばれたとき――。

店員がうっかり心月のバッグに触れ、ほんの少しソースが跳ねた。

「きゃっ!」

心月は甲高い声を上げ、紙で必死に拭きながら店員を睨みつける。

「目ついてないの!? このバッグ、いくらだと思ってんの! 一生働いても払えない!」

店員は青ざめて謝る。

だが心月は止まらず、罵声を浴びせ続けた。

とうとう店員の表情が冷える。

「それ、偽物じゃないですか。何百万のバッグでここ来るとか、逆に笑えますけど」

「はあ!?」

心月は一瞬で逆上し、店員の腕を掴む勢いで騒ぎ立てる。

「店長呼んで! クビにしてよ! いまここで!」

立花柊は見かねて立ち上がった。

「心月、もういいでしょう……」

「関係ないでしょ」

心月は振り返り、立花柊を上から下まで値踏みするように見て、鼻で笑った。

「あんたみたいな田舎者に分かるわけない。これがどれだけ高いか知ってる? これは、せ——」

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