第3章
伊佐子視点
朝の光がブラインドの隙間からキッチンに差し込む中、私は海斗の大好物である卵焼きサンドを作っていた。昨夜の電話のせいで一睡もできなかったけれど、きっと彼にははっきり聞こえていなかっただけだ、と自分に言い聞かせた。
突然、ドアのチャイムが鳴った。
「俺が出る」。海斗はコーヒーカップを置き、どこか真剣な面持ちだった。
彼が見知らぬ男性と話しているのが聞こえ、私の心は言いようのない不安に包まれ始めた。数分後、海斗がスーツ姿でブリーフケースを提げた中年男性を連れてリビングに入ってきた。
「伊佐子、こちらは俺の弁護士の佐藤さんだ」。海斗の声は穏やかだったが、私は何か普通ではないものを鋭く感じ取った。「婚前契約書にサインすべきだと思うんだ」
私は呆然とした。婚前契約書? そんな話、一度もしたことがなかったのに。
「もちろん、当然だわ」私は無理に微笑んだ。「あなたの家は相当な資産家だもの」
佐藤弁護士はブリーフケースを開け、書類の束を取り出した。「高橋さん、これは単なる定型的な手続きです。契約の公正さを確保するため、あなたの財務状況を確認させていただく必要があります」
私は頷いた。簡単なはずだ、と思った。私には大した財産もなく、銀行の貯蓄もわずか、給与収入も明瞭だったから。
「銀行取引明細書によると……」佐藤弁護士は書類をめくり、ふと眉をひそめた。「毎月十八万円を、高橋春奈名義の口座に送金されていますね。これが三年続いています。これらの支払いはどういった性質のものでしょうか?」
私の血が瞬時に凍りついた。
「それは……」私の声は震え始めた。「家族への……援助です」
「家族への援助、ですか」。佐藤さんは確認を続けた。「しかし、あなたの納税記録によれば、春奈さんを受取人として児童税額控除を申請されています。続柄は、娘、と記載されていますが」
海斗が椅子から跳ねるように立ち上がった。椅子が床を擦る甲高い音が空気を切り裂く。
「なんだと」。彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。「伊佐子、これはどういうことだ」
私の頭は真っ白になった。納税記録のことなんて知らなかった。あれは養父母が手続きしてくれたはずだ。送金や医療保険に便利だから、と言っていた。
「さらに」。佐藤さんは無慈悲に続けた。「あなたの保険金の受取人には、はっきりと高橋春奈さんの名が娘として記載されており、この関係は三年維持されています。高橋さん、これらの記録について明確にご説明いただく必要があります」
海斗の顔は青ざめていた。彼は私の方を向き、その瞳には今まで見たこともない怒りと失望が満ちていた。
「俺たちは三年付き合ってきた」。彼の声は震えていた。「三年だぞ、伊佐子! 君に娘がいたなんて、一度も言わなかったじゃないか!」
「海斗、お願い、説明させて……」。私は立ち上がり、彼に歩み寄ろうとしたが、彼は一歩後ずさった。
「父親は誰だ」。海斗の声が鋭くなった。
「違う!」と私は叫んだ。「私の子じゃないの!」
「じゃあ、なんであの子は君をママって呼ぶんだ!」。海斗の瞳が怒りに燃えていた。「昨夜の電話、俺にははっきり聞こえたんだ! なぜ法的に君が母親になってるんだ? なぜ君が彼女の費用を全部払ってるんだ!」
彼の手を掴もうとしたが、振り払われた。
「お願い、説明する時間をちょうだい。春奈は、あの子は……」
「春奈、か」。海斗は冷たく笑った。「名前さえ教えてくれなかったんだな。他に何が本当なんだ、伊佐子。他にどんな秘密があるんだ」
「嘘はついてない!」。私は膝から崩れ落ち、涙が頬を伝った。「事情が複雑なの。でも、あなたを裏切ったことなんて一度もない!」
「複雑だと?」。海斗の声は氷のように冷たくなった。「子供の存在を隠すことより複雑なことがあるか? 君のことなら何でも知ってると思ってた。結局、君は三年間も嘘をつき続けていたんだ!」
佐藤弁護士が気まずそうに咳払いをした。「私はそろそろ……」
「いえ、いてください」。海斗が彼の言葉を遮った。「契約書にサインはしません」
心が引き裂かれるような気がした。「海斗、お願い、最後まで説明させて……」
「もういい!」海斗はドアを指差した。「出ていけ、伊佐子。俺たちは終わりだ。最低限の誠実さもない人間と結婚なんてできない」
「そんなこと言わないで!」。私は泣きながら彼に這い寄った。「三年間も想い合ってきたのに、そんなふうに簡単に諦めちゃうの?」
「諦めたのは君だ」。海斗の言葉がナイフのように私の心を突き刺した。「彼女の存在を隠そうと決めた、その瞬間からな」
「愛してる!」と私は必死に叫んだ。「自分の命より愛してる!」
「本当に俺を愛してるなら、三年間も嘘をつき続けたりはしなかったはずだ」
彼はドアに向かって歩き出し、私は這っていって彼の足に抱きついた。
「お願い、やめて。全部説明できるから……」
「もう遅い」。海斗は私を冷ややかに見下ろした。「かつては君が世界で一番誠実な人間だと思っていた。今じゃ、君のことが何もわからない」
彼は力ずくで私の手を足から引き剥がした。
「俺の家から出ていけ」
「海斗……」
「今すぐ出ていけ!」
ドアが乱暴に閉められ、まるで私の人生のすべての光が閉ざされたかのようだった。私は外の廊下に崩れ落ち、涙で視界が滲んだ。
三年の愛、三年の約束、三年の美しい思い出――そのすべてが、たった一朝で無に帰した。
昨日のおじい様とおばあ様の家での温かさ、彼らの愛情深い眼差し、私に家庭を与えると約束してくれた海斗の言葉を思い出した。
今や、何も残ってはいなかった。
また、私は誰からも望まれない子供になった。
また、私は見捨てられた。
通りかかった隣人が奇妙な目で私を見ていて、自分がまだ廊下に座り込んでいることに気づいた。私は立ち上がり、震える手で涙を拭った。
どこへ行けばいいのだろう。
他に、行く場所なんてあるのだろうか。
本当の家ではなかった、あの場所へ行くしかない。
本当に私を愛してくれなかった、あの人たちのところへ行くしかない。
疲れ果てた体を引きずってエレベーターに向かいながら、一つの考えが頭の中で無限に繰り返されていた。
どうすれば、彼に春奈の存在を説明できたのだろう。
どう切り出せばいいかすら分からなかったのだから、彼が信じてくれなかったことを責められるはずもない。
でも……本当に、自分の手で自分の家庭を壊したくはなかった。
