第5章 嵌められる

新田達也は、冴島零の幼なじみであり、彼の秘密をいちばん多く知る男でもある。アシスタントのジョージを除けば、零が心から信頼しているのは新田達也だけだった。

新田達也は零を連れて、ホテルの屋上にある空中プールへ向かった。そこは華やかな男女でごった返し、誰も彼もが肌の露出の多い格好をしている。

女たちはセクシーなビキニ姿でグラスを傾け、水辺ではしゃいだり、楽しげにおしゃべりをしたり――湿った夜気の中、笑い声だけが軽く弾んでいた。

冴島零がプールサイドに姿を現した瞬間、何人もの女の視線が一斉に吸い寄せられる。

「こんばんは、新田さん」

「こんばんは、ルーシー。……また胸、育った? 最近ちゃんと鍛えてる?」

「キャサリン、肌が少し焼けたな。明日ビーチ行くなら日焼け止め塗ってやろうか?」

「出産したあとのほうが色っぽいじゃないか。今夜、育児についてじっくり語り合う?」

新田達也はここにいる女たち全員と顔見知りらしく、軽口を叩きながら次々に挨拶を交わしていく。だが女たちは彼と二言三言やり取りを終えると、揃って視線を零へ移した。

値踏みと欲望が混ざった、生ぬるい熱。

零はそれを肌で感じ、眉を寄せて新田達也を睨む。

「……わざわざここに置く必要があるのか。こういう場所が好きじゃないのは知ってるだろ」

すると、豹柄のビキニを着た女がグラスを揺らしながら近づいてきた。唇を艶っぽく歪め、零にウィンクを投げる。

「新田様、その方……お友達? すごくハンサム。彼女、いるの?」

新田達也は肩をすくめて即答する。

「いないよ」

女の瞳がぱっと輝いた、その次の瞬間。

「でも今日、結婚した」

光がすっと落ちる。女は気まずそうに笑い、今度は新田達也へ視線を戻した。

「ごめんなさい、新田様。邪魔しちゃった。ねえ、今夜、一杯どう?」

「もちろん。あとで電話する」

新田達也は片目をつぶり、指で電話の仕草を作る。金髪の女が去っていくと、零は低い声で言った。

「呼び出した理由が、俺に恥をかかせるためなら――今すぐプールに蹴り落とす」

新田達也は慌てて両手を上げ、降参のポーズを取る。

「冗談だって。ほら、こっち」

そう言って零の腕を軽く叩き、プールサイドの一角にあるデッキチェアへ連れていく。周囲には数人のボディーガードが立ち、他人が近づけないように壁を作っていた。

「おまえが国外に出る前に頼んだだろ。家の新田達也あの連中新田達也を見張れって。全部やった。これが調べた資料」

新田達也は紙袋をぽいと放る。

零は受け取って中身を確かめ、口元に嘲るような笑みを浮かべた。

「……一度、家の中を洗う必要があるな。血筋があれば財産を食えると思ってる連中がいる」

「大木ってのは外から切られて倒れるとは限らない。中の虫に食われて枯れることもある。――なあ、この手のことやるとき、俺の名前は出すなよ。恨まれるのはごめんだ」

新田達也は肩をすくめ、ふっと妙に楽しそうな顔になると、零へ身を寄せて声を潜めた。

「で? 今日戻ってきたのは資料のためだけ? 聞いたぜ。今日結婚した新婦、めちゃくちゃ綺麗なんだってな」

零は資料を紙袋へ戻し、新田達也の「好奇心の塊」みたいな顔を冷たく見返す。

「年上の遺願を片づけただけだ。俺が結婚してる姿を見たかったんだろう。……知ってる通り、俺は女に触れると発作が出る」

新田達也はまた両手を上げた。

「はいはい。けどさ、説明しないの? 世間じゃ『先天性の不能』って噂まで出てるぞ。俺がそんな病気なら、首吊れる場所探すね」

そう言いながら、指で首元をくるりとなぞって――ぎゅっと引く仕草。

零はそのくだらない演技を眺め、テーブルの上から葡萄をひと粒つまんで口へ放り込む。

「誰かが言ってた。人生で大事にする相手なんて、ほんの一握りだ。無関係な観客の声に心を使う必要はない」

「誰が言ったんだよ、それ」

「知らない」

新田達也は盛大に白目を剥いた。

「ほんと、もったいない男だな。一生、女の楽しさを知らずに終わる」

言い捨てて立ち上がり、プールへ向かって大声を張り上げる。

「さあさあ、本日の王子様のお出ましだ! どのシンデレラが俺にガラスの靴をくれる?」

次の瞬間、ばしゃーん!

派手な水しぶきを上げて飛び込み、女たちが人魚のように群がった。

「ほら見ろ、これが新田達也楽しい新田達也ってやつだ!」

新田達也は水面でばたつきながら、周囲の女の腰や背に手を滑らせる。プール一帯が甘い笑い声と吐息で満たされていく。

零は小さく首を振り、資料を掴むと踵を返した。

――そのころ、別の階の個室。

荻原和夏は、妙に暑いと感じていた。空調のせいではない。肌の奥が、じりじりと熱を持つような感覚。

腕時計を見れば、冴島羽美が決めた帰宅時間が迫っている。和夏は結局、先に帰ることを選んだ。

「ごめんね、みんな。先に失礼する。新婚だし……冴島家に悪い印象を残したくないの」

軽く頭を下げて別れを告げる。

友人たちは愛想よく見送り、柚木真唯が「送るよ」と言いかけたが、和夏は笑って首を振った。

「大丈夫。一人で帰れるから」

――本当は、真唯が一緒に来れば、羽美に何を言われるか分からない。そう思ったのだ。

真唯は頷き、和夏がエレベーターへ乗り込むのを見届ける。扉が完全に閉まった瞬間、真唯の口元に薄い嘲笑が浮かんだ。

「楽しい夜になるといいね。明日のトップ記事、楽しみにしてる」

密室のエレベーターで、和夏は突然、全身が熱くなった。

呼吸が荒くなり、胸の奥がどくどくと騒ぎ出す。

「……なにこれ。心臓、速い……」

皮膚がむず痒い。誰かに触れられたいという衝動が、理性を押し潰そうとする。

そのとき、ちん――と音がして扉が開いた。

乗り込んできたのは冴島零だった。

中に女がいるのを見て、零は眉をひそめ、反射的に半歩身を引く。和夏との間に、きっちり距離を作った。

零は和夏の写真など見たことがない。彼にとって新田達也結婚相手新田達也とは、顔すらどうでもいい存在だ。だから隣の女が妻だなど、思いもしない。

エレベーターが階を下りていくにつれ、和夏の意識は薄れていく。

そして――濃い男の匂いが鼻腔を満たした瞬間。

零は、荒い息が近づく気配を感じて振り向いた。

同時に、和夏が彼の胸へ滑り込んでいた。

「離れろ!」

低く叱りつけても、和夏は必死にしがみついてくる。身体を絡めるように、逃げ場を塞ぐように。

「俺は……発作が……薬を……!」

零は焦ってポケットを探り、アレルギーの薬瓶を取り出した。だが、その瞬間、目を疑う。

――手首に、いつもの赤い発疹が出ていない。

「……どういうことだ。出てない。呼吸も、鼓動も……平気……? 治ったのか。それとも、この女だから……」

困惑の隙を突くように、柔らかな唇が零の唇へ重なった……。

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